【32.涙】

「ふーっ」

一日の疲れをとるあたしのリラックスタイム。
肩まであるお湯は、毎日のプチ贅沢として入浴剤を入れている。
適温に保たれた湯の温度は、こわばった体をほぐしてくれた。

足を伸ばして、今日一日を振り返る。
その瞬間に後悔した。

思い出したくないことがあったのだ。
忘れてしまいたくて、でも忘れられなくて困っていた。
困って、後悔して、泣きたくなった。

ここは、強いあたしを唯一泣かせてくれる場所。
風呂釜に張った沢山の水に、涙を紛れさせられるから、いくらでも泣ける。

でも、あたしは、哀しいときは泣かないって決めたから。
今流す涙は、悲しみなんかじゃない。
深い、深い後悔だ。

「どうして、あなたなんかっ……」

好きにならなければよかった。
そうすれば、こんな気持ちを知ることもなく、あたしは笑って傍にいられたのに。

いや、好きになったとしても、恋になんてするべきじゃなかった。
限界が来るまで、あたしは知らない振りをするべきだったのだ。
自分の気持ちに蓋をして、仮面をかぶっていれば、いつまでもあのままでいられた。
あのままでいられたのだ。

なのに――

「あなたが優しくするからっ……」

肩に触れた手を覚えてる。
歩調を合わせてくれること、笑うと目尻が下がること、自分を語るときの淋しそうな顔も。
全部、色鮮やかにあたしの中に残ってる。

憎らしいほどに、それは褪せることなく愛しい記憶のまま。
あたしをグチャグチャにする。

会った事さえ後悔させそうなほどに、好きになってしまった。
過去に戻れるなら、あの時あの瞬間に戻りたい。
そんな夢を見た。

「好きです……」

たとえ叶わないとしても、伝えたかった。
けど、それも出来ない。
言葉にしたら、きっと止められなくなる。
あたしは頑固で傲岸で、強欲だ。

でも、まだ止まれる。だから、今ここで止まらなくては。
溢れないように、気持ちに栓をして、そして笑うのだ。
悲しさが、愛しさが漏れないように。

だから、今だけ。
今だけは、この恋のために泣こう。
深くて、惨めな後悔のために泣くことを、自分に許してあげるのだ。

「っ……ふっ……」

湯気のこもった浴室に、自分の泣き声が反響する。
入浴剤を入れて乳白色になったお湯に、透明な雫がいくつも落ちる。
身体を包み込む沢山のお湯は、あたしを慰めるように、温かく寄り添った。

(08.08.10)






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