【43.海】

「ほら、起きて」
「ん……あと、5分……」
「ほら、遅刻しちゃうよ。起きて」

布団にくるまって、中々起きない彼にため息をつく。
汗をかいたのか、額に張り付いた黒髪を指でどかした。

大学まで2時間かかるというのに、彼はいつもギリギリまで寝ている。
それをどうにか起こして、きちんと学校に行かせるのは私の役目だった。

何度もやっているので最近はコツも掴めてきたが、結構骨が折れる。
低血圧で寝起きの悪い彼は、ちょっとやそっとじゃ起きないからだ。
粘り強く、根気よく、声をかけ続けてようやく覚醒する。

今日もかれこれ10分以上話しかけていた。
このまま彼に付き合っていたら、私の登校時間も危うい。

お化粧はもちろんのこと、髪の毛もちゃんととかしたい。
最低限の身だしなみをするべく、私はベットから距離をとる。

「私、下降りるからね」
「……なぎ……」
「えっ、ちょっ、かいとっ――!?」

手をとられ、引きずり込まれる。
少しだけ体温の移ったシーツと覆いかぶさる身体に、思考が停止する。
抱き込む力は寝起きのわりに強く、私の混乱を助長した。

記憶がフィードバックする。
あれは何時のことだっただろうか。

カチッとまるでジグソーパズルのピースがぴったり合わさったみたいに。
もしくは、時計がただ一秒間を告げるために刻んだ音のように。
抗いようもなく恋に落ちた。

その瞬間、この身を支配したいのは喜びなんかじゃない。
海よりも深い絶望だ。

あれほど気をつけていたのに。
あれほどこの人にだけは恋なんてしないって思っていたのに。
こんなにいとも容易く、坂を転げ落ちるように恋にはまってしまうなんて。

あぁ、もし恋愛の神様がいるのなら、そいつはサディストに違いない。
だって、不毛すぎるではないか。
よりにもよって好きになったこの人は、兄なのだから。

「は、はなしてよ……」
「……お前、抱き心地いいな。人形見てぇー……」
「……兄さん……」

寝ぼけた兄は、すりすりと嬉しそうに私の肩口に頭を擦り付ける。
ふわっと薫る私と同じシャンプーの匂い。
そんな些細なことにどうしようもなく嬉しくなる。

「……お母さん来ちゃうからね。ほら、離して」
「……凪」

高鳴る胸。
突然呼ばれた名前に、こちらを見つめる真剣な瞳。
私は身動きが出来ない。

近づいた兄に身を固くする。
胸元に埋められた頭。一瞬の痛み。
何をされたか理解して、私は飛び起きた。

「っ……! 何して……」
「ん〜。証、かな?」

悪びれもせずに云う兄を思わず睨みつけた。
きわどい部分に残る赤い痕は、紛れもないキスマーク。
顔が火照るのが分かる。

「さぁーて、起きるかな」
「……」
「ほら、起きるぞ。おはよう」
「……おはよう、兄さん」

思い切り伸びをする兄に、つっけんどんに言い放つ。
私を試すような視線に負けて、目を逸らした。

この人は、私の気持ちを知っていて、こんなことをするのか。
実の兄を好きになってしまった私の苦しさなんて知らないくせに。
こんな生殺しみたいなことをして、私を振り回す兄なんて嫌いになりたいのに。

それは出来ないのだ。気づいてしまったからには自覚せざるを得ない。
この毒みたいに甘い気持ちは、止まらない。肥大する一方だ。
恋愛の神様は、やはりひどく嗜虐的なのだろう。

ベットに座り込む私の前に、手が差し出される。
それに躊躇した私の腕を、兄は強い力で引き上げた。
途端、収まる身体。私は目を瞑る。

「違うだろ? 海人だ、凪」
「……海人」
「よくできました」

解放され、頭を撫でられる。それに安心した。
艶めいた出来事とはどこまでも遠い兄妹の触れ合いが、さっきの行為の異質さを浮き彫りにする。

兄の意図は分からない。
どうして私にあんなことをしたのか分からない。
寝ぼけていたと言われればそれまでだ。

でも、私は嬉しかった。恥ずかしくなると同時に、喜んでいたのだ。
白い肌に赤く咲いたひとつの華。泡沫の愛の傷。
消えなければいいと、そう思った。

(08.09.14)






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