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リリム 1.策略と小言




触れ合う口唇。あがる息。
若い女の身体は柔らかくて抱き心地が良かった。

「お取り込み中かしら?」
「っ……」

引き裂くように聞こえた淡々とした声に唇が離れる。
それを残念に思いながら、声を出した主と向き合う。
こちらを睨みつける目はとても冷ややかだった。

「ごめんなさいっ」

腰を抱き支えていた女の子が慌てて離れ、鞄を掴み恥ずかしそうに顔を隠しながら出て行く。
ヒールのカツカツという音が、日が落ちずいぶん暗くなった部屋に残像のように響いた。
彼女と睦みあおうと机に腰掛けたままだった僕は、邪魔をした人物に向けて嘆いた。

「あーあ、あの子もう来ないよ」
「それは結構。手間が省けます」

即座に返ってくる言葉。
その鋭さに怒らせたことを知る。彼女はいつも怒ってばかりだ。
パイプ椅子を乱暴に引き、PCを立ち上げる。

「学部生に手を出すなって何度言ったら分かるんですか?」
「院生ならいいの?」
「そういう問題じゃないって分かって言ってるでしょう?」

修士2年、松山美穂。
彼女は僕のことが気に食わないらしく、学部生のときから事あるごとに突っ込まれてきた。
他の先生方の前では優等生の彼女を変貌させたのは僕だ。

僕がたまたま生徒に手を出そうとしたときに居合わせたのが原因。
それから何故か何度も現場に遭遇している。
彼女が怒るのも無理はない。でも、僕に悪気はない。
誘ってくるのはみんな女の子たちのほうだ。

思わず漏れた純粋な疑問に、眦をあげてきつく言う松山に僕はポツリと零す。

「君はガミガミガミガミ……お母さんみたいだ」
「……あなた本当に失礼ですね」

僕の言葉に、松山の顔が引きつる。
まだ二十代の松山に『お母さん』は少し失礼だったかもしれない。
けど、言っても詮無いことをグチグチいうところとか母親とそっくりだ。

「研究室はラブホじゃないんですけど?」
「知ってるよ。何もしてない」
「……どうだか」

乱れて外れていたシャツのボタンを閉めながら笑う。
律儀に視線をそらしてくれる松山を横目に自分の机に戻った。
右の引き出し、ごちゃごちゃの中から、二枚の紙を探し出す。

「なぁ、松山。これ行かないか?」
「……マイ・フェア・レディ?」

ミュージカルのチケットを指に挟みひらひらと振った。
確か今度の日曜日。
人からもらったものだったけど一緒に行く人もいない。
特定の恋人もいないし、彼女を誘っても構わないだろう。

「私にイライザの真似でもしろと、教授(プロフェッサー)?」
「……僕、助教授だけど?」

その証拠にさっき松山が逃がしちゃった女の子が出ていったドアの横、僕の名前が書いてある。
同じ苗字が二人いるから、その横に適当な紙で『助教授』って貼り付けておいた僕は親切だ。
なんて気の回る先生なんだろう。

「……あんた、本っ当つまんない男」

だけど、松山は僕の返答がまたもや気に食わなかったらしい。
さっき以上に機嫌を損ねたらしく、その横顔はあからさまに面白くなさそうだ。

ウィットのきいた言い回しができればいいんだけど、僕はあいにくそこまで頭が回らない。
回ったとしても、素直に彼女の言葉遊びにのってあげるつもりはないのだ。

USBメモリを差しこみ、キーボードを手荒く叩く松山。
夏季休業前だというのにもう課題でもやりにきたのだろう。
その真面目さ、他の院生にも見習って欲しいものだ。

ディスプレイに集中できないのかしないのか、松山はちらりと僕を見てため息をついた。

「どうして私なんですか? 他の子誘えば良いでしょう?」
「誘ってる最中に、君が追い払っちゃったからね」
「……追いかけて渡してきたらどうですか、すけこまし」
「面倒だよ。君と行けばいいじゃない?」

少しは悪いと思ったのか松山の語気が弱まる。
そこに畳み掛けるように申し立てる。

彼女が邪魔をしたせいで、僕はデートの相手を一人失ったのだ。
一回くらい僕に付き合ってくれてもいいだろう。

僕の意図が伝わったのか、ツカツカと足音を立てて寄ってくる松山。
彼女のつけている香水がふわりと香る。
ベルガモットとジャスミンと後は分からない。
今までに嗅いだことのない匂いだった。

僕の指に挟まったチケットを一枚とり、彼女は背を見せた。

「今回だけですよ」
「もちろん、構わないさ」

つんけんとした松山の言い様に、見えてないと知りつつも優しく笑いかける。

賢く冷たい綺麗な彼女。
一度でいいからデートに誘ってみたいと思っていたのは本人には秘密だった。






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2012.01.25