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リリム 4.劣情と反撃




講演会の帰り、金曜日の新宿は混んでいた。
夏も終わりに近づいているとはいえ、まだまだ暑い。
人とすれ違うたび、むき出しの肌がくっつき、思わずため息が出た。

「ふぅ……」

駅に向かう道ですら、こんなにも混雑しているのだ。
これから行く駅を思うと憂鬱だった。

飲みに行くのだろうスーツ姿の中年たち、盛り上がり道をふさぐ大学生。
清楚なセーラー服を翻す女子高生。
これから出勤なのか煌びやかな衣装をまとうお水の女。
通りすがりの香水の匂いが鼻をついて、空腹を刺激して気分が悪くなりそうだった。

駅前で何か食べていきたい気分だが、この時間だ。
どこも混んでいるだろう。
おとなしく自宅に帰って適当なものを食べよう。
そう思い、少し歩調を速めた。

デパ地下帰りのおばさんを避けて、重そうな荷物を持ったサラリーマンとぶつかる。
謝罪をし先を急ぐと、目の端に見覚えのある服がよぎる。
それに松山を連想して振り返ると、その場に残るベルガモットとジャスミンの香り。
彼女に違いなかった。

けれど、隣にはスーツ姿の男がいて、二人は仲よさそうに腕を組んでいた。
しかも、その身に着けているのは、よりにもよって僕がプレゼントした服だった。
衝撃に立ち止まった僕の背中に、ぶつかった高校生が舌打ちをしながら去った。

彼氏いないんじゃなかったのか。
とんだ勘違いに自分で自分に腹が立つ。
あれだけ美人な彼女だ。特定の相手がいないほうがおかしい。
僕はなんてことを失念していたのか。自分のバカさ加減に落胆する。

ニコニコと僕には見せない笑顔で男に話しかける松山に、足が二人を尾けていた。
なんて馬鹿なことをしているんだろうと思ったけれど、行動してしまった以上仕方なかった。
距離を開けて、後ろをついていく。
大通り沿いにあるホテルに入りそうになる前、僕は思わず声を上げる。

「松山!」

僕の声に見返ったのはやっぱり松山だった。
その顔には後ろめたい様子など微塵もなかった。

「……あら、こんなところで偶然ですね」
「あ、あぁ偶然だね」

偶然でも何でもなく尾けていた僕は、松山の言葉に内心慌てふためく。
もしかしたらバレているんじゃないかと勘ぐってしまう。

そんな僕の動揺も知らず、松山は隣に立つ男に目で合図を送った。
松山の仕草にも少し腹が立ったが、それよりもその男が僕に会釈をして先にホテルに入っていったのが何より気に食わない。
どうせ、先に言ってて。了解、部屋番号はメールするね、とかという奴だろう。
僕もよくするから手に取るように分かった。

胸中の憤りを隠して、僕は比較的穏やかに切り出した。

「彼は、恋人?」
「……そんなわけないじゃないですか」

肯定されると思っていた僕の質問に、松山は意外なことに首を横にふった。
それが信じられず固まる。
いま一番聞きたかったことだけに、僻耳ということはないはずだった。
松山は、コロコロ変わる僕の表情を楽しむように続ける。

「まだ名前も知らないですよ」
「え……」

予想の斜め上をいく回答に、改めて絶句する。
名前も知らないような男とホテルに入ろうというのか。

夏のはじめ、竹内の言葉を思い出す。

『松山がウリしてるって――』

これがそうだとしたら、松山はどうして、悪びれもせず立っているのか。
僕にバレるのはどう考えてもマイナスのはずだ。
なのに、顔色一つも変えずに笑ったままだなんて。
不愉快だった。

「来なさい」
「ちょっ助教授?」

松山の腕を掴み、そのままホテルに向かう。
さして広くないフロントのパネルを適当に押して、鍵を受け取る。
その間、彼女は黙ったままだった。
最初以外、ロクに抵抗すらしないその様子に僕の苛立ちが増していく。

エレベーターに乗って、部屋への廊下を機嫌悪く歩く。
壁についたライトが妖しく光る部屋に入って、やっと松山の手を放した。
オートロックのドア、鍵のかかる音がした。

「どういうつもりですか?」

強い力で握っていたせいか、手首をさする松山の腰に手を回し、強引にベッドへ誘導する。
持っていた鞄を奪い、放り投げるように置いた。
優しくしている余裕がなかった。

「こういうつもりだよ」

華奢な身体、少し力をこめれば、簡単に寝台に横たわる。
その上に跨れば、もう彼女は逃げられない。

「行きずりの男とホテルに入るんだったら、僕と入ったって同じだろう?」

名前も知らないような男とでも寝るんだ。僕とでも寝るだろう。
松山がそういう女だと知って、むしろ都合が良かった。

ただでさえ生徒に手を出すのは面倒くさい。
でも、誰とでも寝る女には遠慮などしなくてもいい。
僕の経験からいうと、後腐れもないだろう。

彼女は真面目なタイプだと思っていただけに少し残念な心もあれど、それは本当に些細なことだった。

「……助教授と?」
「そうだ。僕が相手じゃ嫌かい?」
「……相手が変わるだけです。いいですよ」


嫌だといえばいいと思っていた。
けれど、彼女は僕の淡い期待を裏切り、無表情に了承した。

僕が抱いた幻想が壊れる。
今になって竹内の言葉を信じる気になった。
松山は噂どおりのあばずれ女だったのか。

「君は嘘つきだ」
「何がです?」

僕の言葉に、松山は本当に分からないといった風に首を傾げる。
彼女の携帯が鳴っているようだったけど、そんなのは無視だ。
どうせ彼女は僕と同じ部屋で寝るし、今はそれどころじゃない。

「竹内は正しかった」
「……あぁ、あれ。助教授は竹内のいうこと信じるんですか?」
「この状況でどうやって君を信じる?」

押し倒されている今も至って冷静に見える松山。
慣れているとしか思えない。

「いいですよ、信じなくても」
「……」
「そのまま私を抱けばいい」

松山の言葉に違和感を覚えて、脱がそうとしていた手をとめる。
至って普通に見える彼女の目に浮かぶ残念がる光に、僕はある一つの可能性に思い当たった。
もしかしたら、これは試されているのかもしれない。

これだけ綺麗な彼女だ。
他人から向けられる理不尽な劣情に今まで何度もさらされてきただろう。

今、松山を抱けば、僕は今まで彼女を自分の欲望の対象として見てきたほかの男と同類になってしまうのではないか。
性欲だけで彼女に迫った男と一緒くたにされるのだ。
そうなったら最後、どれだけ弁解したとしても、もうこの子には届かない。
信じてもいない女を抱く軽薄な男として、何の価値もない、代えのきくセフレの一人にされてしまう。

そう考えると、冷静に見えるのは呆れているから。
抵抗しないのは面倒だから。
慣れているんじゃない。慣らされているのかもしれない。

押し倒したときに滑り落ちたラップワンピースの隙間から繊細なブラジャーの肩紐が覗く。
めくれあがった裾から、細いがちゃんと肉のついている脚が見えた。
見た目どおり豊満な上乳が、Vネックから僕を誘惑する。

けれど、見下ろす僕を凝視する目は静かだが鋭い。
僕は、こんな冷たい目で見つめ返してほしくて、彼女を追いかけてたわけじゃないのに。
いつ間違えたんだろうか。

「ごめん」

そう呟いて、僕は覆いかぶさっていた松山の上から移動した。
背を向けてベッドの端に腰をかける。

好みの女を前におそらく僕は生まれて初めて我慢した。
こみ上げてくる衝動を抑えるため、口を動かす。

「手を出したら、その他大勢にされるんだろう?」
「あら、気づいちゃいました?」
「それに……君の挑発に乗った時点で僕の負けじゃないか」

声をかけたあのときから、はかられていたのだ。
彼女の挑発に乗って抱くような男だったら、散々利用した上で捨てるつもりだったのかもしれない。
僕の今までの所業を大学にそれとなく告げ口するぐらい、松山はやってのけるだろう。
最初からそういう意図があったのだとしたら、彼女は本当恐ろしい女だった。

「君は……怖い女だ」
「褒めていただいて光栄です」


楽しそうな声音。からかう気配がする。
松山が起き上がったのか、ベッドがきしむ。
背中に感じた重み、するりと自然に巻きついてくる腕。
耳元に息がかかった。

「ま、松山っ!?」

思いがけない彼女の行動に声が上ずる。
耳に唇が当たった感触がして、僕は身じろぎをした。

「あなたは耳が弱いのね」

こもる声。掠れた言葉が耳にかかる。
ぺろりと辿る舌のせいで、肌が粟立つ。
濡れた音が耳の奥に聞こえて、素直に反応してしまう。

「かわいいね、せんせい」
「っ! 君はっ!」

くすりと耳元で囁かれた言葉に、頬がかっと熱くなる。
僕の抵抗を封じるように、激しくなる舌使いに小娘みたいに声をもらした。
背中に当てられた胸は、柔らかく僕の劣情をあおる。

やられてばかりじゃかなわんと手を伸ばすと、松山はそれを察したのかするりとベッドから降りた。
けぶる僕をそのままにして、満足そうに松山は微笑んだ。

「ごちそうさま」
「……まつやま?」
「楽しかったわ。またね、助教授」

そう言ってバッグを掴み、松山はドアに向かう。
その軽い足取りは、つい先ほどまで襲われていたとは思えない。

松山の出て行ったドアがパタンと閉まる。
廊下を歩くヒールの音が次第に遠ざかっていく。

今度こそ、騙されたと思った。
彼女はとんだ女狐だ。可愛い子だなんてとんでもない。

好きな女にいいように扱われたショックで、まだ立ち直れそうにない。
そんな僕を急かすように、備え付けの電話がけたたましく鳴りはじめた。







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2012.05.11