【01.頭】
「えっ……?」
空高く放り投げられ、予期せず腕の中に納まったそれに、私は固まる。
私の胸元をみる物欲しそうな視線に少し居心地が悪い。
「ブーケ、良かったね」
「……私いらないのに」
「そういうこと言わないの。ほらっ、高田さん睨んでるじゃない」
隣に立っていた涼子に言われ、ブーケトス待ちの前列を見ると、高田さんがこちらを睨んでいた。
化粧が濃くて、いかにも自分の容姿に自信があるとでも言いたげな高田さんは、早く結婚してしまいたいのだろう。
何の根拠もない、受け取ったら次の花嫁になれる花束なんてジンクスを信じられる純粋さをうらやましいと思った。
「渡してこようかしら」
「……わざわざ地雷を踏みに行く意味が分からない」
「だって私、本当にいらないんだもの」
私の言葉に、涼子は呆れ顔。
涼子の視線の冷たさに私は唇を尖らせた。
ホテルのチャペルから披露宴の会場に慌しく移動する。
その間もしつこく追いかけてくる高田さんの視線から逃げようと、涼子の体の陰に隠れた。
背の高い涼子は、私の行動をおかしく思ったみたいだけど、追求してはこなかった。
「あんた、東京に彼いるんでしょ? 結婚しようとは思わないの?」
「……考えられない。分からないの」
涼子の質問に、去年の春から同棲を始めた彼の顔を思い出す。
きっと今日も遅くまで仕事だろう。
朝が早い私と夜遅く帰ってくる彼。もう何日も起きてる彼を見ていない。
休日は不定期で、私はいつ彼と抱き合って寝ただろう。
これだけすれ違っている恋人と結婚なんて出来るのだろうか。
考えられなかった。
「結婚しなくても生きていけるから、別にいいかなって」
「……適齢期逃すわよ」
「……それは嫌ね」
高校からの腐れ縁のわたし達も、もう三十代を過ぎた。
今日は、あの頃は全然男に興味がなかった明美の結婚式だった。
広い宴会場の用意された席に座る。
涼子の席は隣だった。
「明美、結婚するのね」
「結婚しないなんていってたのにね」
「……そういう子ほど誰よりも早く結婚しちゃうのよ」
照明が落ちた会場で二人コソコソと話す。
主賓の挨拶が明るく適当な長さで終わる。
淡々と進む披露宴。ウエディングケーキの前に立つ明美の横顔を見つめた。
愛されて幸せそうな顔。
新郎と二人、恥ずかしそうにケーキにナイフを入れた。
「良かった」
「うん、本当によかった」
涼子と二人、明美の幸せに笑う。
明美の選んだ人はとても誠実そうないい人で私は安心した。
乾杯の音頭にシャンパンの入ったグラスを掲げた。
「涼子は結婚しないの?」
「……あんた、それ聞く?」
次々運ばれてくる料理に手をつける。
明美が美味しいから選んだと言っていた料理の数々は、その言葉通り舌がとろけそうな出来栄えだ。
「涼子が私にも聞くからいけないんじゃない」
「……しないわよ。できないでしょ」
会社の部長と不倫をしている涼子は、心底嫌そうな顔をして吐き捨てる。
そんな顔をするくらいならやめてしまえばいいのにと無責任に思う。
けれど、もう何年もその関係が続いているのだから、それでも涼子は幸せなのかもしれなかった。
遠く、新婦の席でニコニコ微笑む明美を見る。
幸せな恋愛からは程遠い私たちだからこそ、今回の結婚を聞いたときは本当にうれしかった。
私たちが出来ないことを明美がしてくれたみたいに感じたのだ。
さっきチャペルで見た明美のドレス姿はすごく綺麗だった。
小さい頭を包む純白のベールは、これからの人生を象徴しているように清らか。
何の障害もないように見えて、私たちの恋とは対照的だ。
自分で選んだとはいえ、少し惨めに思えるのも確か。
明美は専業主婦になるみたいだけど、私はもしまかり間違えて結婚しても、仕事をやめるつもりはない。
今の仕事は楽しいし、全てを旦那に頼るのは私らしくない。
元々何日も会わなくて平気だし、記念日なんて自分でも忘れてる可愛げのない女。
それが私。
そのはずなのに。
「どうしたの?」
「……幸せそうでうらやましいわ」
食事の手が止まる私に話しかける涼子にぽつりと呟く。
どこか淋しいのはなぜだろう。
親友を奪われたせいか。
はたまた地元に帰ってきて久々に高校の同窓生に会ったせいか。
いや、違う。
クロークに預けてきたブーケを思い出す。
無性に賢二の顔が見たくなった。
「会いたいな」
「……彼氏?」
「うん、もう何日も起きてる顔を見ていないの」
彼はどんな風に笑っただろう。どんな風に話しただろう。
動いている彼を最後に見てから時間はあまり経っていないはずなのに、記憶はおぼろげ。
一緒に住んでいるのに、私たちの距離はこんなにも遠かった。
「あたしも最後に会った日が思い出せないわ」
「……ふふ、そのまま手放しちゃいなさいよ」
「そうね。それもいいかも」
面白がってからかう私に、涼子は楽しそうに言った。
そんなことを言っておいて、数ヶ月先にまた彼の愚痴を聞かされるのだろう。
考えると憂鬱だけど、きっと私も愚痴を言うからお互い様だ。
考え事をしている間に、お色直しが終わり、明美は翠のドレス姿だ。
新婦の手紙が読み上げられ、その言葉の端々に出る明美の優しさに、私たちの目に涙がにじむ。
「いい式ね」
「……えぇとっても」
感極まって泣きじゃくる明美を新郎が柔らかく支える。
その仲むつまじい様子に自然と頬が緩む。
私にはやっぱり結婚はよく分からない。
今は一緒にいられれば十分だから、結婚しようなんて思えない。
けど、こんな風にお互いを尊重していけるなら結婚を考えてもいいかもしれない。
「結婚したくなるわね」
「……あたしはできないけどね」
自虐的な涼子の言葉に顔を合わせる。
そして、二人クスクスと笑った。
若かったあの頃のように、何でも出来そうな気がした。
「二次会行く?」
「……どうしようかな」
新郎新婦が退場し、司会者が披露宴の閉会を告げる。
涼子が幹事なのをいいことに、二次会の出欠席の返事を、私はギリギリまで待ってもらっていたのだ。
片道二時間かかる自宅まで今から帰るのは面倒だ。
明日は有休を取ったから、実家に泊まっても問題はない。
けれど、今は帰りたくてムズムズする。
「どうする?」
「……行かない。また埋め合わせする。涼子、明美によろしく行っておいて」
仲の良い二人に当てられたのかもしれない。
とにかく賢二の顔が見たくてたまらない。
「分かった。どうせ彼氏に会いに帰るんでしょ」
「ふふ、アタリ」
「……全く。近いうちに三人で会いましょう」
「うんありがと、涼子」
涼子に別れを告げ、挨拶もそこそこに帰路を急ぐ。
クロークから花束を受け取るのを忘れずに、最寄り駅から電車に乗った。
腕時計の時間は限りなく天辺に近い。
家に着く頃にはもう寝てしまっているだろう。
けれど、あなたの顔を一目見たい。
今すぐに会いたいと思った。
(11.05.21)
【02.髪】
「美知、風呂入……、あれ?」
浴室からTシャツとジャージ姿で出てきた僕は、同棲している恋人に声をかけた。
タオルで髪を乾かしながらリビングに着くと、そこに美知の姿はない。
それに首を傾げ、寝室に足を向ける。
案の定、ベッドの上でシーツも被らずに眠る美知に、僕は思わずため息をついた。
「どうして君はまたお風呂にも入らず寝ちゃうのかなー」
「……」
「こら、聞いてるのか?」
近づいて、その柔らかい頬をプニプニとつつく。
人よりも少し長いまつ毛はいつまで経ってもピクリとも動かない。
反応がないのをいいことに、僕は美知の三つ編みを手にとった。
「まったく、どうしてそうやって結わいちゃうのかな。綺麗なのに」
「……」
三つ編みに結われていた髪を解いていく。
片方を解いたら、もう片方。
すべてを解いた髪はまだ乾いていないのか、少しだけ湿り気をおびていた。
「あーもうサラサラ。ヤバイ手触りだね」
「……」
「うーん、ここまで反応がないといっそ心地よいなぁー」
耳元でこんなにもギャーギャー言っているのに、美知は身じろぎ一つしない。
一度眠ると深い美知の眠りは、これしきのことでは妨害できないようだった。
髪に触れていることに飽き、美知の隣に滑り込む。
端整な顔を正面から覗き込み、聞いてないと知りつつも話しかける。
「まつげ長いし、唇の形も綺麗」
「……」
「どうしよう、食べちゃいたいくらい可愛い」
無防備に投げ出された手足。ぽけっと半開きになった唇。
深く閉じられたまぶたも薔薇色に染まる頬も、どうしようもなく可愛くて。
自分がどれだけ美知に惚れているかを思い知る。
前から抱きかかえ、首筋に顔を埋める。
鼻から入って全身に広がる芳香。
その匂いにひどく満たされる。
何の迷いもなく、幸せだと思えた。
「ゆっくりおやすみ、美知」
「ん……」
長い長い髪を撫でると、美知が返事をするように声を上げる。
それに微笑み、美知の匂いに包まれたまま、僕は目を閉じた。
(09.10.04)
【03.こめかみ】
「君から会いたいなんて、何かあったの?」
「……」
喫茶店に着いての第一声。
珍しい私の誘いに、彼は飲み物も早々に切り出した。
私が話しがあることなど、彼にはお見通しのようだった。
この人と付き合ってもう何年になるだろう。
とても長い間、一緒にいた気がする。
けれど、その一瞬たりとも、この人を独占できた気がしなかった。
何かと忙しいと言い、私の話を聞いたふり。
私が気づかないとでも思っていたのだろうか。
本当の意味で一番になりたかった。
この人を独占したかった。でも、それは無理だ。
私はこの人の何を知っているだろう。
きっと何も知らない。
私が知っていることはきっと他の人も知っていることだ。
私はこの人の特別なんかじゃない。
この人は特別なんて作る気がない。
そんな人とはもう一緒にはいられない。
私がひどく惨めだ。
「別れてください」
「え……」
驚いた顔。
こんな話を切り出されると微塵も思わなかったのだろうか。
一人悩んでいた私が滑稽だ。
「嘘だろ?」
「……私は本気です」
まだ信じられないのか聞き返す彼に、私は静かに肯定する。
私の本気を悟ったのか、慌てるその姿を冷めた目で観察する。
「俺のこと好きだって言ってたじゃないか」
「……過去のことです。忘れてください」
みっともなくすがる言葉に、希望など残さないようにきっぱり否定する。
私が好きだったこの人は、いつの間にか小さくなった。
憧れの目で見ていた過去は、そんなに遠いものじゃないはずなのに。
今はこんなに遠い。
いつのまに気持ちがなくなっていたのだろう。
目の前のこの人を見て、なんの気持ちも浮かび上がってこない。
限りなくゼロに近い、ありのままの姿が見える。
どこが良かったのかすら分からない。
「君は俺がいなきゃ生きていけないだろ?」
「……」
この人はいつのことを言っているのだろう。
昔はそうだったかもしれない。
でも、今は違う。
あなたがいてもいなくても、私はもう生きていける。
誰かに頼って何かを制限される生活はこりごりだ。
「私の分はここに置いておきますから」
「……そうだ、一緒に住もう。昔そうしたいって言ってたよな」
鞄から財布を出し、自分の頼んだカフェオレの御代を出す。
彼の言った言葉の唐突さに、私は言葉をなくす。
短気な頃の私だったら、今の言葉に怒っていただろう。
拳銃を持っていたら、この人のこめかみに突きつけて殺してやりたいと思ったかもしれない。
けれど、そんな気もこの人と何年もいるにつれ、なくなっていった。
何も期待しなくなったのだ。
その約束をひとつずつ信じていた私は遥かかなた。
この人に対する情熱はかけらすら残っていない。
全てはいまさらだ。
私は家族がほしかった。
その夢を叶えられるかもしれないと思ったから一緒にいた。
けれど、私の夢はこの人といる限り、叶えられないだろう。
だからもうさよならだ。私は私の道を行く。
「さようなら」
「おっおい、杏樹!」
一言言い残し、席を立つ。
後ろは振り向かない。私は先に進む。
開けたドアのベルがカランと鳴る。
その音に後押しされて、私はすがすがしい気持ちでドアを閉めた。
(10.03.02)
【04.眉毛】
自由に気ままに生きた彼女の、愛した人が今日逝った。
その一報を受け取ってから、もう二日が経った。
お焼香の匂いが会場中に漂って、暗い気分を煽る。
「いやっ、お願い、いやなのっ」
「姉さんっ」
とても静かな空間に、とめる母の声が響く。
亡くなったのは、叔母の旦那。
恋多き叔母の一目ぼれで押しかけ女房をしたらしい。
20歳以上年上で当初は反対されたそうだが、叔母が押し切ったそうだ。
全てこの告別式の会場で聞いたことだった。
年に数回会う程度の親戚でしかない私は、昨日彼女の旦那に初めて会った。
母は何度か会っていたみたいだが、仕事の都合で忙しい私は初対面。
初めて会う旦那は、化粧されていたからか、眉毛が凛々しく鼻の高い、とても綺麗な顔をしていた。
噂好きの大叔母が病気だったと言っていたはずなのにだ。
今まで見たどんな死に顔より安らかだった。
「姉さん、落ち着いて」
「落ち着いてなんてっ! どうして先にっ……」
なだめる母親にすがりつく叔母の背中の小ささに驚く。
私の好きだったこの人は、こんなに頼りなかっただろうか。
姪の私からみて憧れだったこの人は、こんなにも普通の人間だったのか。
それとも私が大人になって、手が届くようになったからだろうか。
思い出を汚されているようで、見ていられない。
親族席の最前列で取り乱す叔母から目をそらす。
「お悔やみ申し上げます」
「っ……」
弔問客からの言葉に現実に戻されたのか、叔母はその場に泣き崩れた。
すかさず駆け寄る母に、体を支える父。
祖父母はとうに亡くなり、叔母たちに子供はいなかったようだった。
そんな叔母が唯一頼れたのは、旦那だったらしい。
心の支えとも言える人に先立たれた叔母の悲しみは計りしれないだろう。
けれど、大切なものなどない私には、彼女の痛みは分からなかった。
「気持ちは分かるけどっ、姉さん喪主なんだから、あと少し頑張って」
「……生きてていいって。生きてなきゃいやだって、そういってくれたのよ」
「……?」
「なのに、どうしてそう言った彼が先に死んでしまうのっ!!」
小声で話しているとはいえ、狭い会場だ。丸聞こえだろう。
揉める叔母たちをよそに、告別式は進む。
何を言っているかよく分からない読経は、いつになったら終わるのだろうか。
弔問客に頭を下げるのすら面倒くさくなった自分に呆れる。
私には人の情がないのではないだろうか。
大切な人が亡くなって、泣いている人がいるというのに、何も感じない。
ひとつ思うことがあるとすれば、大切な人がいなくて良かったということくらいだ。
私はあんな風に惨めになりたくない。
何かを大事にしすぎて、心の平穏を壊すくらいなら、一生一人でいいのだ。
周りから見れば、悲しい気持ちだろう。
モテない三十路女の負け惜しみだといわれるかもしれない。
でも、ああはなりたくないのだ。
大切なものなどない。
みっともなく泣いてすがるようなものは、私には。
あぁ、私はきっと誰にも惜しまれず一人ひっそり死ぬだろう。
死に際に後悔するかもしれない。
悲しんでくれる人が、看取ってくれる人がいないことを悲しむのかもしれない。
けれど、それでいい。自分で望んだことだ。
「喜三郎さん、帰ってきてっ……!!」
「姉さんっ」
読経を背景に叔母の悲痛な言葉が反響する。
そろそろ出棺の時間だ。
このあとの火葬場で、叔母はまた手がつけられなくなるだろう。
自分でした嫌な想像に、一秒でも早く家に帰りたいと思った。
(10.12.11)
【05.眉間】
「終わらない……」
「ぼやいてないでやらないと終わりませんよー」
「佐藤こそ手を動かしなさい」
金曜日。午後二十一時。
後ろの席の後輩と絶賛残業中。
さっさと終わらせて帰りたいのに、任された書類の量が多くて難航している。
後輩と半分ずつ分けたはずだけど、彼は仕事が早いから今にも終わりそうだった。
それが原因で余計に焦る。凡ミスして時間をロスするのだけは避けたい。
「課長め、私に全部押し付けて、自分は」
「直帰ですからねー。先輩人がいいから」
「……それは馬鹿にしてる?」
「そんな滅相もない」
私の苛つきを物ともせず、彼はおどける。
本当は話している余裕もないけど、会話して気を紛らわせないとおかしくなりそうだ。
「先輩ー、眉間にシワ寄ってますよ」
「うるさい、仕事しろ」
「もう若くないんですから、気をつけてくださいね」
そういうことばかり言って本当かわいくない。
大体五つしか変わらないのに、自分が言えたことか。
眉間のシワを指で伸ばしている間に、彼は自分の分をやり遂げて帰り支度を始める。
それに私は慌てて残りに取り掛かろうとしたけど、どう考えても佐藤と一緒に帰るのは無理みたいだ。
フロアで一人残業決定。仕事の遅い自分。嫌になる。
「じゃあ、僕はお先に」
「手伝えって言っても帰るんでしょ」
「……彼女待たせてるんで」
一縷の望みを込めても、彼に曖昧に断られる。
今日のことを思い返せば、確かにそう言っていた。
恋人を待たせているなら仕方ない。
愛しの彼女の元へ帰りたまえよ。
何か悔しいけど。独り身の僻みだけれど。
内心の不満を顔に出さないように口を開く。
「そうだった。引き止めてごめん。ありがとう」
「先輩も無理せずに。では」
私の態度が面白かったのか、佐藤はクスリと笑った。
さりげなさを装って私の机にコトリと置かれる缶。
眠気覚ましのコーヒー。私の好きなメーカー。
お礼を言おうと思ったのも束の間、彼はフロアから去っていく。
残ったのは缶コーヒーただひとつ。
彼の置いてった差し入れは、私のお気に入りの微糖だった。
随分前に休憩を取ったときに買ったのか、缶の表面は結露している。
口を開けば減らず口。表情はとても憎たらしいのに。
そうやって上手く気を回して、私を甘やかすから嫌いになれない。
佐藤の彼女がうらやましい。
職場でとか考えたことなかった。
恋人のいる人とか眼中にも入らないはずだった。
でも、私、佐藤が欲しい。
かわいくないなんてウソ。とてもかわいい。
これは好きってことだろうか。
私は彼の恋人になりたいのだろうか。
ぐるぐると雑念が頭を回る。
手はとまったまま。
残業は終わりそうもなかった。
(13.06.28)
【07.まぶた】
「なぁ、依子」
「……」
鏡台の前に正座する依子の背中に話しかける。
クレンジング剤を染みこませたコットンを頬に当てる依子は、俺の話を聞いていないように思えた。
「話って何だ?」
「……なんだと思う?」
俺の問いに質問で返した依子に、眉を上げる。
そう聞かれても、俺には改まって話すようなものはない。
最近の俺たちを考えても、思い当たることはなかった。
まさかとは思うが、別れ話ではないだろうか。
俺は半信半疑のまま、口を開く。
「……別れ話とか?」
「……」
俺の言葉に、依子はつけまつげを外していた手を止める。
視線だけで『バカじゃないの?』と伝える依子に、俺は思わずホッとした。
そんな俺の心境など知らず、依子はつけまつげを外す。
濃い目のマスカラ、太く引いたアイラインが、コットンを滑らせるたびに消えてゆく。
ターコイズのまぶたが本来の色を戻し、依子は素顔になった。
それを確認して、俺は鏡の中の依子に続きを促す。
「じゃあ、何だよ。もったいぶらないで、さっさと言えよ」
「……もったいぶってるわけじゃない」
ゴミ箱にコットンを捨て、依子はこちらに向き直る。
その表情はメイクを落としたのもあって、少しだけ暗かった。
「言うのが怖いだけ……」
「……病気か?」
俯いて逡巡する依子に、俺は恐る恐る話しかける。
依子が何を言うか分からない状況にひどくドキドキする。
お願いだから、早く何か話してくれと思っても、依子は中々口を割らなかった。
「お風呂入る……」
「お……おう」
沈黙に耐え切れなくなったのか、唐突に立ち上がる依子に、俺はフッと息をつく。
下着と寝巻きを持って、逃げるように去った洗面所から依子が呼ぶ声がする。
「忠ー、バスタオル取ってきて」
「……はーい」
素直に返事をして、依子用のピンクのバスタオルを手に取る。
洗面所でバスタオルを待っていた依子に、望みの物を渡す。
それと同時に、視線を落とした依子が、ぽつりと言った。
「子供出来たの。私は産みたい……お風呂入るね」
バタンと閉められた浴室の扉から、勢いのあるシャワーの音がする。
一人残された俺は、呆然と依子の言葉を反芻する。
「……嘘だろ」
余りにも唐突な話に、俺は何度も嘘だろと呟いた。
(09.08.31)
【08.瞳】
駅まであと数十メートル。
ゆるくつないだ手の隙間には秋風が忍び込む。
日中は暖かいから油断したのか、半袖を着てきた彼女は少し寒そうだった。
そう思った矢先にくしゃみをするその体に、俺は苦笑しながら密着した。
くっついた俺の体から暖をとりたいのか身じろぎする彼女が、こちらをみて困ったように眉を下げた。
「ごめんね」
「寒い?」
「ちょっとだけ」
その言葉に、つないだ手を少しきつくする。
寒いという彼女の手はかなり冷たかった。
帰宅ラッシュの最中だからか、駅前はいつもより人が多い。
くたびれたスーツを着たおっさんの波をかきわけながら進む。
足早に歩くOLに押しのけられそうになっている彼女を救出し、庇いながら改札へ向かう。
「今日、人多いな」
「金曜日だからね、仕方ないよ」
「……そうか。今日って金曜日だったっけ」
「つーくん……」
曜日感覚のない俺に呆れ眼をみせる彼女。
その行動一つ一つが愛おしいと、ふと思う。
だらしなく緩む唇を不快に思ったのか、むくれる彼女すら可愛く見えて仕方ない。
「何笑ってるのよ?」
「……かわいい」
「バカッ!」
正直に告げると、彼女は照れたのか、頬を赤くし唇を尖らせる。
そんなところも可愛いなんて言ったら、なおさら機嫌を損ねてしまうかもしれない。
褒めても怒るし、褒めなくても怒る。
これだから女の子は難しい。
「可愛いとかって言葉はもうちょっと場所を考えて言いなさいよっ」
「……たとえばどんな?」
「そっそれは……ヒントなんか教えない。自分で考えて!」
ヒステリックにプリプリ怒る彼女が面白くて、にやにやと笑いながら返す。
すると、からかわれているのに気づいたのか、彼女はさらに唇を尖らした。
どうやらご機嫌斜めになってしまったらしい。
これから頑張ってご機嫌取りをしないと、次のデートは当分お預けになりそうだった。
それにしても、彼女は怒っていても全然怖くなくて、可愛い女の子は得だななんてのん気に思った。
怒っているポーズをとる彼女の手にそっと力をこめる。
俺の合図に気づいたのか、ご機嫌斜めのままこちらを見る彼女に俺は困った顔を作った。
「ごめんね?」
「……何が悪いかなんてわかってないくせに」
「分かってるよ。からかってごめんね」
へそを曲げてクールになってしまった彼女に真摯に謝る。
内心可愛い彼女が悪いからいけないなんて思っていても、そんなものは微塵も見せない。
そうこうしている内に改札前に着く。
改札前は、同じように別れを告げる男女ばかりで、空気が若干桃色だ。
けれど、周りは有害なほど甘い空気を出していて、彼女がふくれ面をしているのなんて俺たちくらいだった。
「そんな軽い謝罪じゃ私の傷ついた心は癒せませーん」
「うーん……何でもするから許してよ」
「じゃあ、一個だけわがまま聞いてくれたら、許してあげる」
俺の本音を感じ取ったのか謝っても許してくれない彼女に、両手を合わせてお願いをする。
それを聞くやいなや、最初からそれが目的なんじゃないかと思うくらい、彼女は機嫌よく笑った。
計算高いのか天然なのか、一瞬でご機嫌になった彼女に、今度は俺が呆れ眼。
これで高いブランド物のバックとかを強請られたら、俺はどうすればいいのだろう。
うーんと楽しそうに悩む彼女は、どんなわがままを言うのだろうか。
それが少し怖くて固まる俺の手を握り、彼女は俺を見上げ小首をかしげた。
その仕草が思った以上に胸にきて、俺の鼓動がどくんと跳ねる。
「ねぇ、さよならのチューして」
「は?」
予想外のおねだりに俺の口がポカリと開いた。
このラッシュ真っ最中の改札前でキスをしろというのか。
仕事帰りのサラリーマンやら学生がいっぱいいる、この改札前でラブシーンを演じろなんて。
できるわけがない。
「……ここで?」
「……うん、恥ずかしくてもいいから。今して」
一個だけ我侭を聞いてというから、どんな我侭がでてくるかと思えば衆人環視の上でのキスとは。
ブランド物のバックが欲しいとかよりはいささかマシだ。
けれどそれにしたって、これはハードルが高いのではないか。
それを証拠に我侭を言った彼女の方が顔を真っ赤にしている。
「キスなんて別にここじゃなくたってできるじゃないか……」
「そう、だけど。なんか今、すごくキスしたいの」
普段自分から我侭なんて言わない彼女がたまに言った我侭だ。
叶えてやりたい。
けれど、キスをするには恥ずかしさが勝る。
出来ない理由をいくつかつけて断ってしまいたい気分だった。
「帰ったらきっとさびしくなるから、またすぐに会えるって分かってるけどさびしくなるから」
「琴子……」
「だから、お願い」
上目遣いで瞳を潤わせて言う彼女を、初めて卑怯だと思った。
その目に覗き込まれるとそらせなくなる。
まっすぐ見つめるその目に逆らえなくなる。
きっと彼女は、俺がその我侭を断れないことを分かっている。
あぁ、なんて卑怯な子だ。
引き寄せられるように彼女に近づき、頬に手をかける。
赤く染まった頬は熱くて、その熱が俺にも伝染しそうだった。
呼吸が早すぎて、今にも心臓がつぶれそうだ。
唇を重ねる刹那、周りの喧騒が消える。
子供のおままごとのような唇を合わせるだけのキス。
柔らかさを堪能することもなく、唇はすぐに離れる。
時間にしたらほんの10秒にも満たない触れ合いはなぜか息苦しかった。
乱れた息を静かに整える俺に、彼女は満足そうに笑う。
「なんか初めてのキスみたい」
恥ずかしいのか相変わらず頬の赤い彼女は、それを誤魔化すように俺の胸にしがみつく。
その小柄な体が愛おしくて、俺も人目を気にせず、優しく抱き返した。
(10.09.17)
【11.頬】
すぅっと辺りが明るくなる。
朝だというのを、ぼんやりした意識で理解する。
まだ開かない目蓋の中、また起きてしまったことにがっかりした。
どうして今日、あたしはまだ生きているのか。
朝なんて来なくていい。目覚めないでほしい。
お願いだから、このまま、永久に眠らせてほしい。
寝る前、あんなにも明日が来ないことを願ったのに、今日も朝が来てしまった。
失望のままゆっくり瞳を開ける。
6畳の部屋、南向きの窓にかかるカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。
気だるさを抱えた体を無理やり起き上がらせる。
ぼーっとする頭で頬を触ると、そこは軽く湿っていた。
そこはどうやら涙の跡で、あたしは寝ながら泣いていたみたいだった。
悲しい夢を見たせいだ。
寝起きの回らない頭で部屋を見渡すと、今日もそれはあった。
それは夢ではなかった。
「おはよう、和成」
白い窮屈そうな壺に入ったあなたは、昨日と何一つ変わらない。
当たり前だ。もう和成は焼け焦げた骨になってしまったのだから。
6月28日。あたしの誕生日。
和成は突然逝った。悲惨な事故だった。
信号無視をしたトラックが横転。たくさんの人が巻き込まれた。
和成はすぐそばを歩いていた小学生をかばって死んだらしい。
あたしはその知らせを、会社への電話で知った。
駆けつけたときには、血まみれだった和成の体は清められたあとで、ただ眠っているだけに見えた。
けれど、あたしの声に答えない。
何度名前を呼んでも、何度頬に触れても、目を開かず、口も聞かず。
次第に青ざめて硬くなっていく和成に、あたしは和成が死んでしまったことを受け入れたのだ。
それからは散々だった。
お葬式の最中に貧血で倒れ、通夜の最中に泣き崩れた。
恋人だったあたしのあまりの憔悴ぶりに、和成のお母さんが遺骨を壺に入れて渡してくれた。
そのおかげで、いまあたしの元には和成がいる。
あれから、もう半年も経った。
49日もとうに終え、和成の残りの骨はもう彼の家のお墓に入っている。
季節は二度変わって、生きていたら和成の誕生日はもうすぐだった。
時間はゆるゆると過ぎているのに、あたしは今も夢にみる。
目の前をトラックが横転する。子供をかばう和成。
制止しようと声を張り上げても、あなたには聞こえない。
あなたがひかれるその瞬間、あたしは目が覚める。その繰り返し。
どうして止められなかったのだろう。
どうしてあたしも一緒に逝けなかったのだろう。
そんなことばかり考えている。
仕事に行っても、友達に会っても、あたしはからっぽ。
あなたがいなければ、呼吸すらままならない。
「あなたのいない世界なんて……」
生きていけない。生きていたくない。
思い出すのは、あなたのことばかり。
太い腕、広い背中、子供のような体温を。
あたしは永遠に失ってしまった。
楽しかったころには戻れない。
悲しみが増殖して、もう止まらない。
どうしてあたしを置いていったの。
あんなに一緒にいるって言ったのに、どうしてあなたはいないの。
嘘つき。ウソツキ。大嫌い。
自分の思ったことにハッとする。
嫌いになれたらどれだけいいだろう。
嫌いになって忘れてしまえたらよかった。
でも、あなたはあたしの心の奥深く根を張って。
記憶から去ってくれない。
いつまで経ってもあたしをかき回すはた迷惑な存在だった。
けれど、嫌いになれない。
いくら自分勝手でも、たとえ死んでなお傷つけられても、あたしは和成を嫌いになれないのだ。
好き。大好き。愛してる。
あて先のない気持ちがあふれ出す。
愛しさに狂ってしまえたらどれだけいいだろう。
あなたへの愛に狂って死んでしまいたい。
ジリジリと大きな音を立てて目覚ましが鳴る。
和成がいなくても、あたしが世界に絶望していても、世界は変わらず進んでいく。
そのことが余計あたしを惨めにして。
和成への愛と、自分への哀れみにあたしはただ泣いた。
(10.08.21)
【12.えくぼ】
「忠」
「……」
「ねぇ、忠!」
昼食の食器を洗い終わって、手を拭きながら忠に声をかける。
私が例のことを切り出してから五日。
何をしてもどこか空気がきまずかった。
こんな風になるんだったら、私一人で生む用意をすればよかった。
帰りたくないけど実家に帰って、両親に全て話して協力してもらえばよかった。
全てはもう後の祭りだ。
機嫌が悪い私の声に、びくりと背中を震わせ忠は振り返る。
「えっ、なっ何?」
「今日のご飯何がいいのってさっきから何度も言ってるでしょ!」
「……えー何でもいいよ」
怒って言うと、忠はホッとした顔になり、ついで不機嫌になる。
わざわざそんなことで話しかけるなよと言わんばかりの態度だ。
「何でもいいって言うくせに適当なご飯作ると忠、怒るじゃない!」
「そっそりゃあ疲れて帰ってきてまずい飯だされたら誰だって怒るわ」
「ななんですって」
その言葉は聞き捨てならない。
美味しく、早く、飽きないように工夫して、でも予算は最小限に抑えて。
私だって仕事して疲れて帰ってきてから、頑張ってご飯を作っているのに。
私の中の何かがぷつんと切れる。
もう我慢できない。
「もういいっ!」
「依子?」
「実家に帰る」
言った途端、心が決まる。
忠とは別れる。私は一人でも生きていける。
「認知はしてもらう。でも、結婚はしない一人で産む」
「なっ、何言ってるんだよ!」
私の言葉に驚いたのか、慌てる忠を尻目に私はこの家を出る準備をする。
大きな荷物はあとで送ってもらうとして、服や通帳は必要だろう。
押入れからスーツケースを取り出したところで、私の腕を忠が掴んだ。
「何?」
「ちょっ依子待てって」
「私のご飯をまずいって言うような人とは話したくない」
無理やり振りほどいて、忠に背を向け、私は荷造りを始める。
仕事で使うスーツ、下着に読みかけの本、通帳に印鑑。
そして、母子手帳。
これから必要になるであろう全てのものをスーツケースに入れる。
「あーっ悪かった俺が悪かった。謝るから」
「……本当に悪いなんて思ってないくせに」
私が本当に必要なものだけを選んで荷造りしたのに危機感を感じたのか、忠は慌てて謝る。
そのおおよそ悪いとも思っていない態度に、私は普段使いのバッグを手に取った。
忠なんて放っておいて、さっさと家を出たい。
私の抱えたバッグの取っ手を忠が掴む。
苛々して忠をにらむと、私の視線にひるんで目をそらす。
でも、手は放さないから、私は動きが取れない。
「私は実家に帰りたいの。しつこい」
「うん、もう何でもいいから話聞いてください」
「で、何? 手短に済ませてくれる? 終わったら出てく」
「……依子さん、とりあえず俺の話を聞いてからにしてくださいません?」
切り替えの早い私に忠は戸惑った表情を見せる。
重いバッグとスーツケースを床に置き、私は椅子に腰をかけた。
「そこでちょっと待っててね」
「……五分ね」
私の言葉を聞いたのかいないのか、忠は寝室に向かった。
バサバサと何かを探る音とともに忠の独り言がこちらに届く。
「えーっと、どこいれたっけなー。内ポケットだっけ? あれ、違うな」
「……忠」
「鞄だったような気が……会社に忘れてきたかな? んーでも、あの時確かに」
「忠!」
「あった!」
何を探しているのか知らないが、短気な私はあまり長くは待てない。
声だけ聞こえる状況に、私が焦れて立ち上がったと同時に、嬉しそうな忠の声。
手に持ったペラペラの紙切れを見た瞬間、私は頭が真っ白になった。
「あったあった。よかったよ」
「……それ」
「うん、婚姻届」
どうしてそれを持っているのだとか、何でその紙一枚探すのにそんなに時間がかかるのだとか、言いたいことは沢山あった。
けれど、その言葉すべて、忠の真剣な表情を見て吹き飛ぶ。
意味が分からず思わず後ずさった私の手を握り、忠は口を開いた。
「……俺と結婚してください」
「……!?」
「それで……、俺の子供を生んでください」
思ってもいなかったことを言われた。
嬉しさより先に驚きで涙がにじむ。
「堕ろせって言われると思った……」
「……俺がそんなこと言うわけないだろ。俺は産んでほしいよ、依子との子だし」
「っ……」
その言葉に、もっと早く忠に教えておけばよかったと思った。
忠のことを誤解して、一人悩むくらいならもっと早く相談していればよかったのだ。
事実を知ったときは怖かった。
これが原因で忠と別れることになったとしたらどうしようと悩んだ。
でも、私は産みたかった。
私の身体に授かった命だ。産みたくないわけがない。
だから、最悪の選択も覚悟していたというのに。
感極まって、忠に抱きつく。
この人を選んでよかったと思った。
「あまりにも突然だったから指輪は用意できなかったんだけど……」
「……忠らしい」
どこか考えの足りない彼のことだから、婚姻届はとってきても指輪までは頭が回らなかったのだろう。
そんなところも好きなのだから、恋とは恐ろしい。
ぽんぽんと背中を撫でる手にひどく安心する。
「今度一緒に見に行くか?」
「……高いのねだっていいの?」
「いえ、良心的なものでお願いします」
珍しいデートのお誘いにジョークで返すと、忠は本気にしたらしい。
焦る顔に私はクスクスと笑う。
「冗談よ。これから色々お金もかかるし、指輪よりそっちに使って」
「……でも、結婚指輪だぞ? 一生に一回なんだぞ?」
「そうね……じゃあお給料1ヶ月分で」
お給料1ヶ月分でもシンプルな指輪だったら、おつりが来るだろう。
忠と同棲してもう5年、金銭的に少ししか余裕のない生活に、高価な石のついた指輪などほしいとは思わなくなっている。
これから色々と大変になるだろうし、節約できるところで節約しなければ、よい妻にはなれないだろう。
自分の思考がもう奥様気分でひとり恥ずかしくなる。
そんな私の気持ちも知らず、忠は私の薬指を見回す。
「一緒に選びに行くか?」
「うーん、忠に選んでもらいたいな」
「俺が?」
「うん。忠が選んだ指輪つけたい」
そういった私を見て笑う忠の頬に、可愛らしいえくぼ。
女の子でもないのに頬に出てしまうそのえくぼを忠は嫌だと言うけれど。
私はそれを見て、幸せに顔が綻ぶのをおさえきれなかった。
(11.02.22)
【13.唇】
「ねぇ次はいつ会えるの?」
「……」
重ねた唇の間、糸を引く唾液の先の愛しい人に問う。
その質問に悠希は困ったように微笑んだ。
「葵が淋しかったらいつでも呼んで」
「……そう言う割に恋人にはしてくれないんだね」
希望した答えを返してくれない悠希に身体を離す。
この中途半端な状態が嫌だった。
アイボリーの布団を剥ぎ、悠希は未練なく下着を身に着け言った。
「そうだよ、だって、そんなの面倒じゃない」
「……あーどうして俺はお前みたいなのと一緒にいるんだか」
コトが済んですぐに服を纏って余韻にも浸らせてくれない女のどこがいいというのか。
俺だって終わった後に、睦言のひとつでも言ってみたいというのに。
そんな俺の願望を見事に打ち砕き、悠希はすでにベッドから抜け出し、化粧の準備だ。
「こんな私じゃご不満?」
「……不満があると思う?」
「いいえ、全然」
大きなポーチの中からファンデーションやら下地やら口紅やらを取り出し、鏡の前に並べる。
ホテルの小さな鏡台の前ですっぴんの肌に下地を塗り始めた悠希に俺はため息をついた。
鏡に映るすっぴんの悠希はお世辞でも綺麗とはいえない。
頭も良くなければ、男癖も悪い。
そんな女にどうして俺はこんなにもはまりきっているのか。
「悠希がいけないんだぞ」
起き上がり、ベッドの中から悠希の塗装を眺め呟く。
俺の言葉が聞こえたのか、悠希が振り向く。
その顔にはしみやくすみすらひとつなく、すっぴんを知っている俺ですら騙されそうになる。
「あら、どうして?」
「悠希が必要以上に優しくするから、他の女じゃ物足りなくなる」
何度も他の真っ当な女性と付き合おうとしたのだ。
けれど、彼女たちじゃ駄目だった。
一生懸命尽くし尽くされ、愛し愛すが、足りない。
悠希がいいのだ。
どう考えても悠希よりいい女はたくさんいる。
でも俺は悠希じゃなきゃ満足できない。
そういう身体になってしまったのだ。
メイクを終えたのか悠希はゆっくりと俺の方に振り向く。
「……だって、葵が甘えてる姿かわいいんですもの」
「うそつけ」
「ホント。ついつい甘やかしたくなっちゃうの」
ベッドに腰掛ける俺に近づき、悠希は俺の頬に手を当てた。
そのまま愛しむように撫でられる感触に、俺は思っていることを口に出した。
「俺はさ、悠希のこと好きだよ」
「葵?」
「でも、お前、誰かと付き合うの嫌なんだろ?」
恋人でもない。友達でもない。
仕事で関係があるわけでもないし、幼い頃からの知り合いだったりもしない。
たまたま共通の友人に引き合わされて、たまたまそういう関係になっただけ。
キスはするし、それ以上だって許されてる。
でも、そこには愛がない。
俺は悠希を愛しいと思ってるし、付き合いたいと思ってる。
最初は好意というよりは性欲に近くて、簡単にいうと彼女が好みだった。
だから、抱きたくて、彼女からの誘いを承諾した。
そうやって何度か関係を続けるうちに、悠希に恋をしている自分に気づいた。
けれど、悠希は俺を好きとかじゃなくて、単純に遊び相手が欲しかっただけ。
自分ばかりが彼女を好きで悔しくて色々策を講じてみたけど、悠希はどこ吹く風。
誰も恋人にしない。誰かに本気にならない。
そんな彼女を本気にさせたいけど、悠希の決意は固かった。
もうお手上げだ。
俺に出来ることはただ傍にいること。他の男を寄せ付けないこと。
それぐらいしかない。
改めて考えてみると、自分の状況に少し落ち込む。
でも俺には自分の気持ちを伝えることしか出来なかった。
「俺と関係を絶って悠希が他の男とやるよりは少しマシだから、おとなしく利用されてるんだ」
「……」
「やめたくなったら、いつでも言ってよ。恋人が出来たときもだ」
みっともない姿もたくさん見せているからいまさらかもしれない。
けど、せめて別れのときは見栄を張りたかった。
思ってもいないやせ我慢を口にした俺に悠希は撫でてる手を止め、ベッドに腰掛ける。
そのまま宙ぶらりんになっている俺の手を固く握る。
悠希の手は少し冷たかった。
「何を心配しているのか知らないけど、大丈夫。私は恋人なんて作らない、やめたくなったりしない」
「悠希……」
「それにね、私、葵に会うの好きだよ。人肌も恋しいし」
「……その最後の言葉さえなければすごく嬉しいんだけどな」
悠希の言葉に舞い上がったと同時に突き落とされる。
人肌が恋しいから一緒にいるなら誰でもいいんじゃないか。
体温の高い男だったら俺じゃなくてもいいんじゃないかなんて言えない。
俺は悠希と一緒にいたい。
多少ずるくなっても、曖昧な関係のままでも傍にいたいのだ。
握られている手をゆるく握り返す。
俺の動作にうれしそうに微笑む悠希にもう一度問う。
「なぁ、次はいつ会えるんだ?」
「うーん、人肌が恋しい季節になったらね」
仕事が忙しくて会えないなんて浮気の常套句で、こちらからは一切連絡の取れない悠希。
今はまだ夏の終わりかけで、次に会うのは当分先になりそうだった。
「……秋ってこと?」
「えぇ」
「お前、やっぱりやな奴」
「でも、好きでしょ?」
解ったように微笑む悠希の言う通りなのが少し癪で。
つないだ手を引き、グロスのたっぷり塗られた唇にかぶりついた。
(11.02.10)
【14.歯】
「おねーさん」
閉店間際の商店街。
そろそろ片づけをしようと思ったわたしの背後、話しかける客にゆっくりと振り返る。
軽薄そうな声から想像したとおりの遊び人みたいな男は、にやにやと笑っている。
ブリーチしすぎなのか荒れた髪は土に塗れた人参のよう。
細身のスーツは何だか高そうで、一目で夜の人間だと知る。
出勤前に何の用だろうと思いながら、とりあえず口を開く。
「なんでしょうか?」
「これちょうだい」
名前も知らない彼が取り出したのは、真っ赤に熟れた林檎。
ちらりと視線をそらすと、売り場の林檎が一つ消えていた。
どうみてもこれから接客業に励む人間が、林檎に何の用があるのか知らないが、こちらも商売だ。
吊り下げてあるビニール袋の束から一枚ちぎり、林檎を受け取る。
手早く袋に入れ、彼に差し出す。
「……100円です」
「はい」
手の平に落とされた100円をポケットに入れ、彼をじっと見る。
彼はまだ去らず、何かあるのかと勘ぐっても相変わらず軽薄そうに立っているだけだった。
せっかく入れた袋から、林檎を取り出し、彼はわたしににっこり笑いかける。
「ねぇ、これなんて林檎?」
「津軽」
「ふーん」
手に持つ林檎をじろじろ眺めながめる顔とは裏腹に、声はとても興味を持っているとは思えない。
甘みが強く、果汁の多いその品種は、わたしの好み。
他にもふじ、紅玉、王林、ジョナゴールド、デリシャスなど、商店街の八百屋には珍しく種類を揃えている。
今までいくつもの品種を試したけれど、わたしの舌には津軽が一番合う。
ほどよい柔らかさと赤み。林檎のほっぺとはよく言ったものだ。
わたしが物思いにふけっていると、彼は何を思ったのか袖で林檎を拭き始めた。
何が始まるのか訝しがるわたしを尻目に彼は林檎に口をつけた。
「ちょっ、農薬」
「袖で拭いたし」
「それにしたって……」
洗ってもない、八百屋で買った林檎をその場で食べる人なんて初めてだ。
呆然と彼の挙動を見守るわたしを見ながら、彼はそれにもう一度歯を立てる。
しゃりしゃりと食む音は、涼やかに耳を揺らす。
あふれ出した果汁が腕を伝い、スーツの中に消えていく。
ごくんと飲み込んで、唇を湿らせたまま、彼は笑う。
「うん、美味しいね」
「そりゃどうも」
その林檎を食べているとは思えない妖艶な姿に、思わず口調が冷たくなる。
挑発するような彼から目をそらす。
これ以上、見ていられなかった。
私の戸惑いを感じ取ったのか彼はクスクスと笑い、スーツのポケットからハンカチを取り出す。
それで果汁だらけの手を拭い、再びポケットに仕舞う。
持っていた食べかけの林檎を袋に入れるのかと思いきや、彼はそれをわたしに向かって投げた。
スピードの出ていなかったそれを慌ててキャッチして、わたしは首を傾げた。
「何?」
「おすそわけ」
「……食べかけもらってもね」
一口分かじった跡のある林檎。
これじゃあもう、売り物にならない。
それに初対面の人間の食べかけをもらうほど、わたしは食に困っていなかった。
「そんな冷たいこと言わないでよ、林檎ちゃん」
「……どうして?」
「またね」
自己紹介してもいないのに名前を呼ぶ彼に、手から林檎が離れる。
すんでのところで拾い上げ、顔を上げるとそこにはもう誰もいなかった。
新手のナンパかと思うほど軽薄を絵に描いたような男は、林檎だけを置いて去った。
歯型のついた林檎に目をおとす。
どうやら歯並びはいいようで、そこには美しい歯型が二つ。
何件か先のシャッターの閉まる音がする。
ぼーっとしていないでさっさと店を閉めなければ。
明日も朝は早い。
手元に残った林檎のまだ跡のない部分を齧る。
見事な歯形が三つもついた林檎は、仕入れた本人がいうのもなんだが、ちゃんと美味しかった。
(10.05.31)
【15.舌】
「今日、大家さんに先月の家賃の話聞いた」
ただいまと言った恋人に開口一番に話をふる。
くたびれたスーツ、肩にかけた鞄。
踵を返そうとする恋人――裕也に私は声をかけた。
「どこ行くの?」
自分の口調の冷たさに驚きながら、食卓に座るよう視線でうながす。
のろのろと足取り重く、裕也は正面の椅子に座った。
1DKのダイニング、裕也は縮こまっているが元々の身体が大きい。
二人で座ればぎゅうぎゅうで、部屋の狭さを改めて実感する。
「滞納してるんだって?」
「……」
「私、預けたよね? 何に使ったの?」
家賃の滞納。
今日、帰ってきたときに大家に聞かされた。初耳だった。
家賃も生活費も裕也と折半している。
先月のお給料日に、確かに私の分を渡したのに。
「何に使ってるの? 煙草? こないだやめるって言ったよね」
「……」
「黙ってちゃ分からないよ!」
一言も発さない裕也に苛々が募る。
食卓をこぶしで打つと、それに驚いたのかうつむいた裕也の肩がびくりと動いた。
冷静さを失いつつあるのを自覚して、ゆっくり息を吸った。
口を開いては、ためらうように閉じるのを何度か繰り返したあと、裕也は言いにくそうに切り出した。
「……仕事やめたんだ」
「やめたって……」
寝耳に水だ。
今朝も通常通りの時間に起きて、さも仕事に行きますと言わんばかりの体で出て行ったのに。
嘘だったのか。
呆然としたまま、口を開く。
「いつから?」
「……二週間前」
「二週間もっ! どうして早く言ってくれなかったの?」
裕也の返答に、怒りが沸々と沸いてくる。
二週間も私を欺いていたのか。
その間、一度も相談すらしなかった。
どうせ私が追求するまで言わないつもりだったのだろう。
裏切り行為だ。許せない。
「どうして、何でやめたの?」
「お前には関係ないだろ」
「関係なくないでしょ! 一緒に住んでるのに」
ふてくされたような裕也の物言いに激昂する。
同棲している恋人に関係ないなら誰に関係あるというのか。
あくまで私の質問に答えないつもりなのか。
急く気持ちを極力抑えて、私はゆっくり口を開いた。
「訳を話してよ」
「……」
「私の渡したお金はどこにっ――」
続けようとした言葉は彼の口の中に消える。
思い切り引っ張られた腕がキシキシと痛んだ。
はがそうともがいても、力では敵わない。
都合の悪いことを私が言おうとすると裕也はキスをする。
私の思考を痺れさせてもう何も考えられなくして。
そうやって誤魔化し続けてこれからも生きていくつもりなのだろうか。
長いキスのせいで息が上がる。
無理な体勢でしたせいか、首が痛かった。
「……こんなことで誤魔化そうったって」
「一番最初に利奈に話そうとしたんだ」
「……」
「でも、仕事やめたって言ったら捨てられるんじゃないかって……」
そう言って不安そうな仕草をする裕也は私の性格をよく分かってる。
私が弱っている人間に甘く、冷たい態度をとれないことを。
だから、駄目人間のサンプルみたいな裕也を七年も捨てられずにいる。
共依存ってやつなのだろう。
私がいないと駄目な裕也を見て、自分の価値を確認する愚かな行為だ。
今までだって別れようって思うほどひどいことを沢山されてきた。
けれど、そのたびに縋られて謝り倒されて許してきた。
でももう、それも限界かもしれない。
「……私達、今度こそ別れたほうがいいかもしれない」
「え……」
「もう貴方とはやっていけない。疲れたの」
ひたすら利用される日々。
私はこんなことのために生きているわけじゃないのに。
今までのことを考えたら、涙が出てきた。
泣いている顔を見られたくなくて、顔を覆う。
そんな私に、裕也は慌てたようにしゃべりたてた。
「再就職のことも考えてるんだ。もちろん煙草もやめるよ。酒も控える」
「……」
「君の気持ちが分かったよ。何でも君の言うとおりにする」
熱く展望を語る裕也とは対照的に私の気持ちは冷めていく。
私をなだめるための分かったふり。
何にもわかってないくせに、口からでまかせを言って。
私の七年間はなんだったんだろう。
ひどく虚しかった。
決意をこめて顔を上げる。
泣いている場合じゃなかった。
「それじゃあ、別れてください」
「利奈……」
「貴方とはもうっ!?」
言葉が飲み込まれる。
いつもそう。誤魔化される。
彼の思惑通り、ほだされて、私の言葉が死んでいく。
飲み込まれて静かに。心ごと凍っていってしまう。
私の言葉は彼には少しも届かなかった。
けれど、それも今日で終わり。終わりにするのだ。
「いっ……!」
「私の話聞いてよ!」
戯れのような甘噛みじゃなく強く噛んだ。
痛んだのか、唇が解放される。
裕也の舌には私の犬歯のあと。
突き飛ばして距離をとった。
「さよなら」
そのまま鞄を持って、外へ飛び出す。ひたすらに走った。
同棲してるのだ。あの部屋は私の家でもある。
でも、もうあそこへは帰れない。
彼のいないどこかへ行ってしまいたい。
裕也のいないところならどこでもいい。もう全部捨ててしまいたい。
ここは住宅街。
遠く見える夜のネオン。繁華街。
どこだって良かった。
(12.04.22)
【16.ひげ】
「瑞希、死んだってよ」
「うん、知ってる。お葬式で会ったじゃない?」
久々に会った旧友が私の隣に座ると同時に放った言葉に、私は冷静に返す。
それを訝しそうに一瞥したあと、島岡は私のグラスにビールを注いだ。
同窓会も終わりかけだからか、皆が思い思いの席に散って、私たちの周りはえらく静かだった。
「あいつがあんなに早く死ぬなんて思ってなかったよな」
「……うん、殺しても死ななそうだった。不死身なんじゃないかと思ってたよ」
高校時代の私の彼氏は、卒業してすぐ車に撥ねられて死んだらしい。
私はその時東京にいて、新生活の準備の真っ最中だった。
入学式のために買うはずだったリクルートスーツを、慌てて買いに行く羽目になったのをよく覚えてる。
とても静かな式だった。
芳名帳を書いて、お焼香をしても実感が湧かなかった。
同窓生のすすり泣く声を聞き、死んでしまったのが本当だと分かった。
それまでは瑞希が死ぬはずがないと何の疑いもなく信じていた。
実は生きていてひょっこり戻ってくるんじゃないかなんて妄想をした。
けれど、それはこうやって5年経った今では、所詮妄想だったと分かっている。
前のテーブルにいくつか残っているつまみに手をつける。
箸を使うのが面倒なのか、島岡は手づかみでから揚げを口に放り込む。
それを横目に私は枝豆にかぶりついた。
「でも、バイク事故であっけなく逝っちゃったね」
「つぐみ……」
「だって、本当のことでしょ?」
咎めるように私を呼ぶ島岡に、言い訳をしながらビールをすする。
キンキンに冷えていたビールは今は生ぬるく、飲んでいてもそんなに美味しいものではなかった。
油塗れになった手をおてふきで拭い、島岡が腕を伸ばす。
弱々しく握られた私の手首を辿ると、島岡のひどく頼りない顔にあう。
「……つぐみは、瑞希が死んじゃって辛いか?」
「ううん、そんなことない。私は、いま幸せだから……」
安心させるために微笑んだ私を見て、島岡は少しだけホッとした顔を見せる。
恋人を亡くした私より聞いている島岡の方が辛そうだった。
大切で大切でたまらなかったのだろう。
それは私も同じだったけど、でも私は今もまだ実感を持てずにいる。
だからかもしれない。
瑞希がいないことに切なくなっても、喪った悲しみに溺れることはないのは、まだ夢のようだから。
だって、何年も経った今だってすぐに思い出せる。
一番最初に思い出すのは、キスをするたび頬に当たる無精ひげ。
嫌がる私を押さえつけて、じょりじょりと何度も頬ずりされたのをよく覚えてる。
交際はほんの少ししか続かなかったけど、とても濃密な半年間だった。
子供みたいな恋だった。でも、あのときも私は幸せだったのだ。
手首を握る島岡の手に、私も手を添える。
触ってみると島岡の肌はお酒の酔いもさめたからか少し冷たかった。
「平気だよ、もう大丈夫」
「……そうだよな、今年の冬にはもう母親だもんな」
「実感ないけどね」
島岡が私の手を離すのと同時に、私もそこから手をどける。
そのまま自分の手を膨らんだお腹にそっと当てる。
応えるように蹴られたそこに、私は思わず微笑んだ。
一人で幸せになってしまうことに、少しだけ罪悪感を感じるけれど。
もう生きられない瑞希の代わりに、私が生きるなんて高尚なこと言えないけれど。
でも、私は、これから幸せになる。
いま愛している人と、お腹にいるこの子と共に。
空いたグラスに島岡が次のビールを注いでいく。
妊婦の身体にアルコールはご法度だと知っているが、今日はちょっとだけお付き合いだ。
「結婚しても、俺らのこと忘れるなよ」
「うん……忘れないよ」
そう言った言葉は少しだけ嘘で、私はいまこの瞬間にも砂が零れるように少しずつ忘れていっている。
私はいつまで瑞希を覚えていられるだろうか。
今はまだ覚えている。でも、それはいつまで続くのだろう。
これからもっと忙しくなる日々に、瑞希は風化してしまうのか。
忘れたことさえ忘れてしまって、何故かぽっかりと空いた胸のポケットに他の誰かの思い出を仕舞うのだろう。
それを考えると、どうもやるせない。
もう記憶の中でしか瑞希と会えないから。
出来ることなら、いつまでも瑞希を覚えていたかった。
(10.03.07)