【18.のど仏】


「教授のことが好きです」
「……宮木くん。なんですか、藪から棒に」


研究室を開けての第一声。
抑えきれなくなってでた言葉に、教授は手元の書類から顔を上げる。
お気に入りの万年筆をホルダーに戻し、あたしの話を聞くつもりなのか、手を組んだ。


その動作にすら、キュンとする心に、白旗を揚げる。
どうやったって敵わないと思った。


研究室の真ん中の、書物とがらくたが乱雑に積みあがる机に寄り添う。
見下ろす教授は穏やかで、あたしはそれに勇気をもらい、口を開く。


「あたし、教授のことがっ!」
「私、生殖機能がないんですよ」
「え……」
「子種がないんです。だから、私は誰も抱こうとは思いません」
「……」
「貴女たちの『好き』はそういう意味でしょう?」


言っていることの意味が分からなかった。
何か大事なことを聞いたのは分かったけど、それは心の端からさらさらとこぼれていく。


真っ白だった頭が、パズルのピースをはめていくように、次第に意味を理解する。
その言葉は、告白を断るためだとはいえ、ひどいと思った。


「それは、本当ですか?」
「……というのは?」
「……あたしのことを振るための方便ではありませんか?」


硬直しそうな唇から搾り出すように質問をくりだす。


嘘じゃなくて、それが本当のことでも、それを理由に振るなんてひどい。
あたしは、教授に抱かれたくて、好きになった訳じゃない。
ずっと傍にいて、一番近くで笑顔が見たい。ただそれだけなのに。


停止していた頭に怒りが滑り込む。
激昂に身を任せ、そのまま叫んだ。


「あたしのこと振るのが面倒だから病気だって嘘ついてるんじゃ!」
「貴女は、私がそんな人間だと思っているのですか?」
「っ!?」


冷静な教授の瞳に、怒りがゆるゆるとしぼんでいく。
あたしのことを振るのが面倒だからって、嘘をつくような人じゃない。
そんなこと、あたしが一番知っている。
この四年間いちばんそばで見てきたのだ。


桜が迷い込むときも、日差しが降り注ぐときも、落ち葉や雪が降るときも。
いつだってこの研究室にいて、机に静かに座っている教授を好きになった。


時々厳しくて、たまにお茶目に冗談を言って。
あたしを諭す大空みたいな優しさを持つ教授が好きなのだ。
そんな人が嘘をつくわけがない。


自分の発言のあまりの無礼さに、力なく項垂れる。
謝らなくてはいけないと思った。


「……教授はそんなひとじゃありません」
「よかった。こんなに長い時間勉強したのに、誤解されているのかと思いましたよ?」
「……ごめんなさい。不安だからって言っていいことと悪いことがありました」


反省するあたしの前に影が落ちる。
視線だけ上にあげたあたしの頭を教授は軽く撫でる。
それに唇を噛んだ。


そうやって誰に対しても優しくするから、誤解したくなるのだと言っても分かってくれないだろう。
教授の優しさは、時に残酷だ。
でも、そんなところも好きなんだから、恋とはおそろしい。


ゆっくりと顔を上げる。
あたしを見つめる瞳は、こんなときだって静か。
否定しなきゃいけないことが一つある。


「教授」
「……何でしょう?」
「あたしは、教授に抱かれたくて好きになった訳じゃありません」


肉体関係があったってなくたって、あたしは教授のことが好きだ。
さっきの言葉にはカチンと来た。侮辱されているのかと感じた。
けれど、それぐらいで変わるような、柔な気持ちじゃないのだ。


「あたしは、ただこれからも教授の傍にいたいだけです」
「……駄目ですよ」


あたしの真剣な言葉に、教授は困ったように苦笑い。
その瞳に拒絶を見つけて、あたしは眉を曇らす。


「貴女は未来のある若者で、私はもう老い先短い」
「そんなのっ!」
「それに、貴女は卒業したって私の生徒です。私は生徒とはお付き合いできません」
「っ……」


それを言われたら、あたしはもう何も言えない。
ここに入学しなければ、教授に会うことも好きになることもなかっただろう。
生徒としてしか、あたしは教授に会えなかったのに。


封じ込められた言葉は、宙にも浮かず、口の中で霧散する。
悲しいと思った。けれど、涙はでない。


「私は、貴女とはお付き合いできません。分かってくれましたか?」
「……はい」


懇願するように笑って言われたら、答えはイエスしかありえない。
そんな教授をずるいと思った。
大人特有のずるさ。やっぱりあたしは、この人には敵わない。


何事もなかったように机に戻り、教授は書き物を再開する。
そんな教授にため息をついて、部屋の隅においてある箒を手に取った。
立て付けの悪い古い窓を開けると、淀んだ空気が外に逃げる。
ずいぶん掃除していないのか、少し箒を動かすだけでほこりが舞った。


研究室のそこここに適当に積みあがっている本を、棚に正確に戻していく。
箒を手放し、一気に持った全集は、重すぎてあたしの腕をきしきしと鳴らす。
棚の最下段に全集を押し込むと、その振動で立てかけた箒がカタンと倒れた。


その音に気づいたのか顔を上げた教授と、箒を拾うあたしの目が合った。
気まずくてすぐ逸らそうとすると、そんなあたしに気づいたのか教授は微笑む。
しかたないなぁと言わんばかりの笑みに、あたしの頬が熱くなる。


くるりと回り背を向け、掃除に励む。
照れを振り払うようにバサバサと手荒に箒を扱う。
手を動かしていないと、恥ずかしさにしゃがみこんでしまいそうだった。


「休憩しませんか?」
「ひゃあっ……!」


突然肩を掴まれ、驚いた拍子に箒を落とす。
振り向いたあたしの後ろには、同じく目を白黒させる教授がいた。


「……驚かせましたね、申し訳ないです」
「いえ、大丈夫です。こちらこそ大声出してすみません」


謝る教授に、手をブンブン振りながら箒を拾う。


そんなあたしに教授はまた苦笑して、机の傍のコーヒーメーカーに向かう。
戸棚から二つマグカップを出して、コーヒーを注ぎ、あたしの元に返ってくる。
その間にあたしが持ってきたパイプ椅子を開き、二人でそこに座る。
差し出されたマグカップをお礼を言って受け取り、口をつけた。


深みのある苦いブレンドは、教授お手製のもの。
たまにご馳走になるけど、その腕前はきちんとしたカフェで飲んでいるよう。
研究室にサイフォンはないけど、家ではちゃんと淹れているらしい。
マグカップを両手で包み込むとまだ微かに温かい。


「美味しいです……」
「それはよかった」


あたしの感想ににこりと笑う教授。
コーヒーを飲むのど仏がごくりと動く。


ブレイクタイムに落ちる沈黙。
さっき告白して振られたばかりの身としては、この間がきまずかった。
何か話そうと思っても、話題が出てこない。


「……お辛くはないんですか?」
「どういう意味でしょうか?」


咄嗟に口走ったことは、選んだテーマとして最悪であたしは内心頭を抱える。
案の定、怪訝な顔を見せる教授に、あたしは慎重に言葉を紡ぐ。


「教授にも好きな人の1人ぐらいいたんじゃないですか?」
「……まぁ、いなかったわけではありませんね」
「その人とお付き合いしたいとは思わなかったんですか?」
「思ってもどうにもならないこともあります」
「そんな……」


諦めたような教授の様子に、あたしの方がさみしくなる。


好きな人がいて、付き合って、結婚して、子供を作って。
そういう『普通』の人の幸せを諦めなきゃいけない心境は、あたしの乏しい想像力じゃ分からない。


どれだけ辛かっただろう。どれだけ悔しかっただろう。
教授はきっとその病気のために、好きな人を諦めてきたのだろう。
それは何だかとても淋しい。


子供を作らなくても一緒にいられると、思われなかった。
病気だろうとなんだろうと、ずっと幸せでいられると信じられなかった。
あたしも、過去の好きな人も、そういう意味で教授に信用されなかったのだ。


それに気づいて、とても惨めだと思った。
あたしも含めて皆、哀れだった。


落ち込んでいく気持ちを誤魔化すように、コーヒーをすする。
教授がぽつりと呟いた言葉に、あたしは顔を上げた。


「子種がない私は、辛そうですか?」
「え……?」
「子供を作れない私は不幸で、子供を作れる貴女は幸せですか?」


いつものように静かな瞳で、けれども硬くて冷たい声で、教授はあたしに質問する。
その問いの意味があたしに浸透すると同時に、あたしは片手で顔を覆う。
潤む視界。指の隙間の教授がぼやけていく。


ひどいことを言った。気遣った『つもり』が教授を傷つけた。
普通だなんていって、分かったつもりで教授を差別して。
教授の幸せの定義なんて、あたしが決めるものじゃなかったのに。


「ごめんなさっ、そんなつもりじゃ……」


手の中のマグカップに、何滴も雫が落ちていく。
泣いてはいけないと思った。
勝手に教授を傷つけて、勝手に自分も傷ついて、それでいて泣くなんて我侭が過ぎる。
そうは思っても涙はなかなか止まらない。


浅はかな自分を殴って、終わりに出来たら、どれだけいいだろう。
けれど、それは自己満足でしかなく、あたしは勝手だった。
謝ることすら、自分を憐れむための手段でしかない。


顔を隠して泣きじゃくるあたしのマグカップを取り上げ、教授は新しいコーヒーを注ぐ。


「……泣く必要はありませんよ。良くも悪くも慣れてます」
「でもっ!」
「ひとつだけ。……本当はこんな説教くさいことは言いたくないんですが」


あたしの言葉の先を折って、教授は苦々しい笑顔。
差し出されたマグカップを受け取って、両手で包み込む。


新しくいれてくれた教授には悪いけど、それはもう飲めないだろう。
あたしの偽善が溶けたコーヒーなんて飲む気にもならない。


「言葉は薬であって毒です。扱いにはお気をつけなさい」
「……はい」


また頭を撫でる教授にあたしも涙を拭う。
教授の言葉は、こんなときでも優しい。


そのわずかに残されたそれに、あたしはまだ嫌われてないと安堵する。
傷つけたのにそんなことを思っている自分の勝手さに落ち込むあたしは、やっぱり身勝手だった。


(10.06.30)
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【19.うなじ】


トントンとリズミカルな包丁の音がした。
醤油のような匂いが台所中に充満して鼻をくすぐる。
それが漂ってくる中、リビングでくつろいでいた私は、きりのいいところで本を閉じた。


サイドテーブルに本を置き、座っていたソファから立ち上がる。
そろそろとエプロン姿の直樹に近づく。


私の存在に気づいたのか、一度手を止め振り返る。
不思議そうな顔する直樹を無視し、その背後から作っているものを覗いた。
どうやら今夜は大根と豚バラ肉の煮物のようだった。


「何か手伝うことは?」
「……うーん、じゃあ箸とお皿出して」


煮汁の染みた大根に柔らかそうな豚バラ肉。
圧力鍋に入ったそれに後ろ髪を引かれつつ、私は食器棚に近づく。


深い椀を2つと箸を2膳取り出し机に並べる。
することがなくなって暇になり、そのまま椅子に座る。
ここからだと直樹の背中がよく見えた。


直樹と一緒に住むようになってからしばらく経つ。
彼が料理をするところも見慣れてきた。
けれど、何度見ても楽しいと思う。


流れるような動作を支える無駄な肉のついていない引き締まった背中。
男のクセに美しいうなじに惹きつけられてたまらない。
味見をするその仕草さえ私を魅了する。


「ごはん、できたよ」
「……うん」


両手にミトンをはめ、直樹は鍋を抱える。
中央の椀に盛られた煮物は、今日も今日とて美味しそうで。
見惚れていたのも悔しくて、私は早々に箸をとった。


(09.08.12)
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【20.鎖骨】


「姉ちゃん、トシからマンガ借りてきた」
「あ、今ダメ!」


漫画本の貸し借りに、姉の部屋のドアを開ける。
制止の声は一足遅く、着替え中の姉の姿をばっちり見た。


「ごっごめんっ」
「……歩のエッチ」


目に飛び込んできた下着に急いで顔を背けた。
姉はからかうように言った後、そのまま俺がいるのもお構いなしに着替えを続ける。
ほんの些細な衣擦れの音にさえドキドキする。
そんな自分が悔しくて、俺は憎まれ口を叩く。


「姉ちゃんの貧相な胸なんか見たって何も思わねーよ」
「なっなんですって!?」


見えないけれど、明らかに姉の機嫌が悪くなったのが分かる。
それを放置して、壁側を向きながら姉の机に寄った。


途中、何度か床に脱ぎっぱなしにしてある服に躓く。
ごちゃついた机の上に持ってきた漫画本を置いた。
おおよそ女らしくない部屋の惨状に俺はため息をつく。


「彼氏がいないわけだよな……」
「しみじみ言うな!」


着替えが終わったのか、姉が勢いをつけてベッドに座り込む。
スプリングの音に、ちらりと姉を見た。
トレーナーにジャージ姿で、俺を無視してマンガを読み始める。
マイペースな姉の部屋、床に落ちていたゴミをゴミ箱に入れた。


「部屋、片づけねーの?」
「……面倒」
「そんなんだから彼氏できないんじゃね?」
「余計なお世話。どうせ色気ないですよーだ」


さっきたまたま見た姉は、決して色気がないわけじゃなかった。
華奢な下着に包まれた胸は、思ったよりもボリュームがあった。


けど、鎖骨とかは頼りなくて、肌は見ただけでしっとりしているのがわかる。
触ったらきっとマシュマロみたいに柔らかいんじゃないだろうか。


トレーナーの上からでも、さっき見た光景が思い出されて、妙な興奮を覚えた。
下着が干してあるところなんて、見慣れているはずなのに。
それを姉が纏っただけでどうしてあんなに扇情的になるのか。


実の姉弟とはいえ、ひどく目に毒だった。


何で彼氏がいないのか俺が聞きたいくらいだ。
きっと姉のことだから、恋愛なんて面倒だとでも思っていそうだった。


「……いや、姉ちゃん、十分色っぽいよ」
「っ!? 出てって!!」


思ったことを率直に言うと、姉の顔が真っ赤になった。
高速で飛んでくるクッションを避けながら、自分の部屋に戻る。
ベッドに倒れこんで、枕を顔に当てる。


流線の綺麗な鎖骨、すべすべな肌、今にも折れそうな腰。
さっきの姉の姿を思い出して、眠れない夜になりそうだった。


(11.05.30)
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【21.肩】


「こっちにおいで」


部屋に入るなりベッドに座って、拓哉くんはこちらに手招きする。
それに私は抵抗するように数歩後ずさった。


「ほら、警戒しないで」


そんな私の態度にくすりと笑い、拓哉くんは腰を上げる。
立ち尽くした私の手から荷物を奪い、床に置く。
ハンガーにスプリングコートをかけて私の手を引いた。


「ほら、楽しいことしよ?」
「っ……」


黙り込んだ私を拓哉くんはベッドに座らせる。
不意打ちで耳元に囁かれた言葉に、私の頬が熱くなった。
肩を押されて、ゆっくりとベッドに倒れこむ。
シーツに沈む身体がぽすんと間抜けな音を立てた。


「好きだよ」


寝転んだ私に跨り、ネクタイをゆるめるその姿に鼓動が早まる。
拓哉くんの向こう側、見上げる天井の染みが人の顔のようだとぼんやり思った。
きょとんとした私の表情に、拓哉くんは私の頬を手の甲で撫でる。


「どうしたの?」
「……天井の染みが人みたいで」
「うん? あ……ほんとだ」


正直に漏らすと、私の視線を辿って拓哉くんが天井を見る。
そこにある笑っている人の顔みたいな染みから目を離し、拓哉くんはケラケラと笑い崩れた。


「はははっ、もうっムード台無し」
「……ごめん」


拓哉くんの指摘に、私は素直に謝る。
確かにこんな押し倒されている状況で言うようなことじゃなかった。
空気が読めない自分が恥ずかしくて、また頬が赤くなるのが分かる。


恥ずかしさに身を硬くする私に拓哉くんは愛おしそうに笑う。


「でも、法子ちゃんのそんなとこも好きだ」
「あっ……」
「めがね、いらないだろ?」


私のメガネに手をかけ、するりとためらいなく外す。
途端に目の前にいる拓哉くんすらぼやける。
何にも見えない代わりに、視覚以外全てが鋭敏になる。


シーツの擦れる音、拓哉くんの息遣い。
触れあう私たちの肌。
何もかもが鮮やかになって私を興奮させる。


感覚全てを過敏にするから、メガネを外されるのが一番好き。
でも、それを拓哉くんに知られているのが何だか悔しかった。


顔の両端に置かれた腕が動く。
天井の染みはもう見えなかった。


「それとも、かけたままする?」
「……ヤダ」
「素直じゃない子だ」


くすくすと笑って、拓哉くんは私の顎に指をかける。
私と拓哉くん、楽しい時間の始まりの合図。
ぼやけた視界の中、拓哉くんが笑ったのが微かに分かった。


(10.03.22)
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【22.背中】


渋谷の人混みの中。
気が狂うほどの人数の人とすれ違うが、どれも俺の求めているものとは違う。


曲がったもの、形の悪いもの。
毛のたくさん生えているもの、吹き出物だらけの背中。


好みの背中が中々現れないことにイラつき、俺は手にした缶コーヒーをあおった。
真夏の炎天下の下、冷え冷えだった缶はぬるくなり、喉をぬめっと通る。
木陰に腰掛けているとはいえ、今日はかなりの暑さだった。


当てもなく待ち続けることに疲れ、俺も人ごみの中の一部になろうと立ち上がる。
空になった缶を捨てるべく、ゴミ箱を目指して歩く。
目的の物を見つけ、その中に放り投げようとしていた俺の視界の端、ちらりと映ったものに目を奪われた。


遠目から見ても分かる傷一つない白い肌。
すらりと伸ばされた背筋に控えめな肩甲骨。
反り返った背骨を惜しげなく見せる背中の開いた服に、鼓動が高鳴る。


カランと缶が転がる音に目を覚ます。
慌てて缶を拾いゴミ箱に捨てる。
人混みに紛れそうになる背中を、急いで追いかけた。


人の波を無理やり逆走する俺に、歩行者が迷惑そうな視線を寄越す。
でも、俺はそんなものに構っていられるほど暇じゃなかった。


あれほどの逸材、あと何年探したって見つけられやしない。
やっとのことで見つけた理想の背中、逃してなるものか。


人生のなかで最速スピードともいえる速さで走り、魅惑的な背中を捕捉する。
あと50メートルが遠かった。


ちょうど良いタイミングで赤信号。
天は俺に味方したようだ。


突然声をかけて怯えさせないように、いったん息を整える。
背中はもう目の前だった。


「すみません、あなたの背中、撮らせてもらえませんか!!」
「えっ……!?」


振り返った少女のひどく驚いた顔が、深く印象に残った。


(09.07.29)
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【25.ひじ】


ガラガラと引き戸を開ける。
無駄に元気ないらっしゃいの声に俺は席に腰掛けた。


「とんこつ」
「とんこつに半チャーハン」


一緒に来た同僚が注文したそれに、俺は疑問を抱く。
そして、隣に座る彼女に話しかけた。


「珍しいな、潤がとんこつ頼むなんて」
「そうかな?」


テーブルに積まれたコップを二つ手に取り、ボトルから水を注ぐ。
潤の差し出したそれを礼をして受けとった。


そもそもこの店に入りたいって言ったのは彼女。
普段はそんなこと言わない潤が、ラーメンを食べたいなんてこと自体が珍しいのだ。


「だって、お前昼も夜もあっさりしたものしか食べないじゃないか」
「……私のことよく知ってるわね」
「まぁ、同僚だし、それ以前に恋人ですから」


胃が弱いのか知らないが、潤はあまり脂っこいものは食べない。
焼肉に行っても一皿も食べず、クッパやビビンバなどご飯物ばかり食べているような女だ。


だからなのか、潤はあまり肉付きがよくない。
もしかしたら体質だったり少食だからかもしれないが、彼氏としてはもう少し太ってくれてもいいくらいだ。
そんなことを潤に言ったらきっと怒られるのだろうから、口には出さない。
ラーメンを頼んだことで、もう少し肉をつける気になったのかと期待する。


「へい、お待ち」
「おいしそー」
「いい匂いだな」


カウンターに出されたラーメンを受け取り、入れ物から割り箸を出し、二つに割る。
ちょうど真ん中から割れたそれにラーメンを絡め、口に含んだ。


その途端ひろがる濃厚なとんこつの香り。
麺はつるっとのどごしよく、硬さも俺好みだ。


潤と顔を合わせる。
ここの店は、アタリかもしれない。


「美味いな」
「うん、美味しい」


それから二人、熱いラーメンを汗を流しながら食べる。
スープを飲むとき肘がぶつかり、潤に謝る。


「え? なんか言った?」
「肘があたったから」
「あーそうなんだ。ごめん、全然気づかなかった」


ラーメンに集中していたのだろう。
苦笑しながら潤はそう言い、俺の炒飯をれんげで食べた。


その炒飯は、味が濃くパラッと出来上がっていて、それはそれは美味い。
俺好みの味付けに、潤の気まぐれに感謝し、また来ようと思う。


スープの一滴も残さずたいらげると、潤も食べ終わったらしく目の前には空のどんぶりがあった。
脂っこいものを避ける潤だけにその光景は奇妙で、俺は口をあんぐりとあける。
俺の視線の意味に気づいたのか、潤はこちらを見てにっこりと笑って言った。


「いっつもあっさりしてるものだと飽きるのよ」
「え?」


潤の言ったことに俺は固まる。
その答えは予想外だった。


美味しかったから食べすぎたとでも言うと思っていた。
ラーメン一杯は潤にとって多すぎる量ではない。


けれど今まで、どれだけ美味しいものでもスープまで飲むことなどなかった。
どんな心境の変化だと思ったら、飽きたときた。
あんなに脂っこいものを食べるのを嫌がっていた人が、飽きたからといって脂っこいものを好むようになるのか。


疑問が顔に出ていたのか、潤はクスクスと笑い続ける。


「あっさりしていて平凡な味付けだと、ずっと食べてると飽きてくるの」
「……」
「たまにはこってりしょうゆとんこつが食べたくなってもいいじゃない」


潤の言葉はやんわりと何かを非難するようで俺は耳が痛くなる。
面白そうな顔でにやつく潤に俺は恐る恐る話しかけた。


「なぁ、潤」
「んー?」


がま口の中身を数え、潤はカウンターに食べた分ぴったりの小銭を並べる。
それに俺は財布の中身を確認する。
札しかなく仕方なしにそれを出すとすぐにおつりがかえる。
席をたつと、厨房の親父から野太いありがとうございましたが聞こえた。


「それはラーメンの話だよな?」
「えぇ、もちろんラーメンの話よ」


無駄に晴々しい笑顔の潤の後に続いて引き戸から出た。
そこには行列が出来ていて、食べ終わった俺たちの代わりにまた客が入る。
潤の真意が分からないまま、短い昼休みが終わった。


(11.04.27)
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【26.腕】


「ただいまぁ〜」
「はい、おかえり」


妙に機嫌の良いただいまに、俺は呆れながらも返す。
一日履いたハイヒールを玄関に放り投げ、珠希はフラフラと寝室に引っ込む。
それを見送り、自分のを整えるついでにハイヒールを揃えた。


両手に吊り下げた買い物袋をダイニングのテーブルに置く。
明日の朝食が無事に買えたことに俺はホッとした。
そんな俺をよそに、珠希は部屋着に着替え、椅子に座る。


「唯義、のど渇いた」
「はい、はい。……ったくこの酔っ払いが」


冷蔵庫を開け、水のボトルを掴む。
食洗機から出したグラスをテーブルに置き、水を並々と注いだ。


「ほら、ゆっくり飲めよ」
「うん……」


珠希の方にグラスを近づけ、水を冷蔵庫に仕舞う。
コクコクと水を飲む珠希を横目に、買い物袋を開く。


牛乳に卵に食パン。レタスとトマト。紅茶にコーヒー。
明日はフレンチトーストにサラダ。俺が紅茶で珠希がコーヒー。
我が家の定番メニューの材料を、ガラガラの冷蔵庫に仕舞う。


「おいしい」
「そりゃよかった」


最後の水をグワっと煽った珠希は、ぽつりと言葉を零した。
それに俺は苦笑する。


あれだけ酒を飲めば、誰だって水が美味しく感じるだろう。
毎回どこにそんなに酒が入るんだと思うくらい、珠希は飲んだ。
珠希のうわばみ具合には恐れ入る。俺はあんなに飲めない。


というよりも、もし飲めたとしても飲みたくない。
身体を壊したくないのだ。


珠希は飲み終えたグラスをじぃーっと見つめた。
その不思議な行動に俺が首を傾げると同時に、珠希は勢いをつけて椅子から立ち上がる。


「え、どうかしたか?」
「……寝る」
「あ、あぁ」


驚く俺を置き去りに、珠希はふらふらと覚束ない足取りで寝室に向かう。
あからさまな千鳥足。あんな状態だったら、何か起きてもおかしくない。


嫌な予感がして、手を貸そうと俺が近づく前に、珠希は盛大にコケた。
たくさんの本が詰まっている本棚の前で。


予想通り棚にぶつかり、バタバタと本が落ちる。
それはコケた珠希の上にも降りかかり、まるでコントを見ているようだった。


「痛ったぁ〜い」
「あーもう、本当にたちが悪いっ!!」


散らかった本の片付けは珠希が眠ってからやるとして、俺は珠希の上の本をどけた。
痛そうに顔を歪める珠希を助け起こし、その身体を支える。


けれど珠希は、すぐ膝を折り、床にしゃがみこんでしまう。
どうやら足に力が入らないらしい。
本当にたちの悪い酔っ払いだった。


「珠希、ほら掴まれ」
「うーん、眠いよー……」


素直に抱きついてくる珠希の背中と膝裏に手を入れ、持ち上げる。
お世辞にも軽いとは言えない珠希の体重に、俺の腕がキシキシと歪む。
寝室までの我慢ではあるが、それにしたって重かった。


「……なぁ、珠希?」
「んーなぁに?」
「もしかしてお前太った? 重い」


思ったことを率直に口に出すと、珠希は頬を膨らませた。
酔っ払っていても、脳は正常に動いているらしい。
ポカポカと力の入っていない拳で、俺の胸板を何度も殴る。


「もぉーどうしてそうデリカシーがないのぉー」
「分かった。分かったから、暴れんなっ! 落とすだろ」
「女の子に重いなんて言っちゃいけないんだからぁーー!!」
「まっ、待てその右手の鈍器を下ろせーー」


どこから調達したのか、厚い辞書を振り上げる珠希に俺は慌てる。
初めてしたお姫様抱っこは、ロマンティックでも何でもなく。
俺はその攻撃を避けるのに必死だった。


(09.10.04)
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【27.手首】


「ねぇ」
「……」
「ねぇ、おじさん」


話しかけてくる少女を無視し、標準レンズを一眼レフから外す。
傍らにあった広角レンズを手に取って、つけ変える。
準備が終わった一眼レフを机に置き、ふくれっ面をした少女に向き直る。


「……俺はおじさんじゃないよ」
「じゃあ、おっさん」
「……君って口が悪いよね」


容赦なしに繰り出された言葉に、俺は呆れながらも笑う。
それが気に食わないのか、少女は身体を左右に揺らす。
そのたびに動く制服の下の筋肉が、早く撮ってと俺にせがむ。


「背中はこんなに綺麗なのに……もったいない」
「一言余計。聞きたいことがあるんだけど?」
「どうかした?」
「……どうかしたじゃないでしょ」


不快そうに身体をよじって、睨みつけてくる。
その軽蔑するような目に少し心臓が高鳴る。


「どうして私は縛られてるのか、きちんと説明しなさいよ」
「どうしてって……」


立ちたくても立てないのか、椅子の上で暴れる少女の手首には制服のネクタイ。
彼女の首元から拝借し、ちょちょいのちょいと椅子に縛ったのを怒っているらしい。
蹴られたりカメラを壊されたら困るから、足も縛ってしまおうかと思ったのは少女には秘密だった。


いきり立つ少女は、自らを拘束するネクタイを必死に外そうとする。
あんなに暴れられたら、取れるのは時間の問題だろう。
次があったら、もう少しきつく縛ったほうがいいかもしれない。


「縛る必要があるのか聞いてるのよ!」
「……そうした方が君の綺麗な背中がさらに良く撮れるんだよ」
「今考えた言い訳を得意げに言うな!」


椅子をガタガタ揺らし、噛みつかんばかりに話す少女に、俺は誤魔化すように笑う。
それを見透かされたのか、彼女は視線をいっそう鋭くする。
勘がいい人間はこれだから困る。


「そこは騙されようよ、芽衣ちゃん」
「女子高生を舐めるな」
「最近の女の子こわーい」


そうおどけて言うと、芽衣ちゃんは俺をきっと睨んだ。
手が自由だったら俺を殴りたくて仕方ないのかもしれない。
けれども、彼女の腕は都合がいいことに椅子に縛られ、手を出すことはできない。
縛っていてよかったと心から思った。


「どうせあなたの趣味でしょ?」
「うん」
「即答するな!」


肯定した俺にすぐさま突っ込みが入る。
俺と会話するのが疲れたのか、芽衣ちゃんは椅子にぐったりともたれかかった。


抵抗するのをやめたらしい彼女の肢体は、ほんのり汗ばんでいるのかシャツが張り付く。
ネクタイをとったときに少し肌蹴た胸元は、背中と同様に若々しく艶かしい。


一眼レフを手に取り、ファインダーを覗く。
気だるそうにしてる芽衣ちゃんにシャッターを切った。


「本当は素肌が撮りたいんだけどなー」
「却下。誰があんたに見せるもんですか」
「ケチ」
「何とでも言え」


軽い言葉の応酬に何度もシャッターを切る。
時々撮れたものを確認するが、どれも納得がいかない。


俺が撮りたいのは、こんなただの写真じゃなくて、彼女の本質。
芽衣ちゃんが何を好きで、どんな顔をして、何を思って、どんな未来を生きるのか。
上手い写真家は、その全てを撮る。
俺はまだ未熟だが、彼女の、芽衣ちゃんの全てが撮りたかった。


パシャパシャとシャッターを切り続ける俺を不審に思ったのか、芽衣ちゃんが呆れたように呟く。


「はぁ、あなた、何枚撮る気よ……」
「いいのが撮れるまで」
「えー早く帰りたい。時代劇の再放送に間に合わないでしょ!」


渋い趣味を披露する彼女に、俺は一眼レフを下ろしクスクス笑う。
俺が笑うのが気に食わないのか、また芽衣ちゃんの機嫌が下降する。
こういう風に素直に、自分が不機嫌だと伝えてくる女の子は初めてで、俺にとっては面白い。
妹がいたらこんな感じだったのかもしれない。


「早く帰りたいならもっとリラックスしてよ」
「……そんな簡単にリラックスできない」


芽衣ちゃんは拗ねるように唇を尖らせる。
さっきの鬼のような形相を見ていなければ、その顔に純粋にときめくだろう。
けれど、俺は怒った芽衣ちゃんを見てしまって、素直に可愛いと思えない。
彼女みたいにまっすぐ物を考えられない自分に、内心苦笑する。


「じゃあ、何か楽しいこと考えてよ」
「楽しいこと?」
「そう。それか俺を恋人だと思って」


俺の提案に、芽衣ちゃんは訳が分からないといった顔をした。
まだ数回しか会ったことのない俺を突然恋人だと思えというのは、少し無理があったかもしれない。


「なんであなたなんか!」
「待って。俺の話を聞いて」


案の定食いついてくる芽衣ちゃんの話を、俺は手の平を前に出し遮る。
黙った彼女に俺は口を開く。


「別に兄弟でも先生でも何でもいい。俺を芽衣ちゃんが信頼できる人だと思って」
「……どういうこと?」
「君が俺に心を開いてくれなきゃいいのが撮れないんだ」


首を傾げた芽衣ちゃんに俺は笑いかける。
決して警戒させないように。決して心を閉ざさないように。


そもそもの彼女が少しだけ秘密主義なところがある。
芽衣ちゃんと長い時間を過ごした訳じゃないが、俺だってプロだ。
何十人、何百人と人を見てきた。
芽衣ちゃんが貝のように心を閉じているのが手に取るように分かる。


エスパーじゃないから、何のために、何のせいで心を閉じたかは知らない。
けれど、彼女が俺に心を開いてないのは明白だった。


「そんな頑なに何もかも抱えてたら、あと何日かかるかわからない」
「……」
「俺に君を見せてよ」
「っ……」


俺の朗笑に芽衣ちゃんは頬を真っ赤に染め、目をそらす。
その男性慣れしていない様は、俺の笑みをただ深めた。
俯く彼女の耳は、照れているのか赤くなり、黒髪との対比で美しい。
一眼レフを構えシャッターを切った瞬間に、彼女が顔を上げる。


「開かせてみなさいよ」


鋭い視線でこちらを見ながら頬を染める彼女は、さっきよりは心を開いているようだ。
作戦は成功かななんて、芽衣ちゃんに知られたらぶん殴られそうなことを思う。


「そんなに私が知りたいなら、自分で暴いてみなさいよ。あなた、プロでしょ?」
「……生意気言うねー」


でも、そんなところが気にいっている。


頬の赤みが消えていく様を、次々データに残していく。
しゃがみこみ、下から芽衣を撮っていく。
俺が写したかったのはこれだと確信する。


縛られて窮屈な格好で、俺がその気になれば何でも出来てしまうのに。
彼女は臆することなく、レンズ越しに俺を睨みつけている。
その女王のような、美しく、気高い魂が撮りたい。


「その顔いいねー」
「……ヘンタイ」


にやにや笑う俺に、道端の汚物を見るような目を向ける芽衣を見上げる。
低いアングルから映る芽衣は、その背中以上に美しかった。


(10.06.14)
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【28.掌】


「ねぇ、不倫って楽しい?」
「ん……? どうして?」


コーヒーミルでゆっくりと豆を挽いている姉に、あたしはずっと聞きたかったことを聞いた。
6畳間から見える姉の背中は、あたしの言葉に動揺した気配も見せず、豆を挽き続ける。


姉の不倫を知ったのは、去年の春。
たまたまこの部屋で留守番をしていたあたしと、あの男が出会ったことがきっかけだ。


いまでは多少なら話をする仲なのだが、出会った当初は姉をもてあそぶあの男が恨めしくてたまらなかった。
真実を知ったあたしが、あの男を怒鳴りつけたのを姉が泣いて止めたのもあって、いまは表面上は仲よくしている。
けれど、一年も経った今も、まだただれた関係を続けているのかと思うと癪に障って仕方ない。


内心考えていることを笑顔で隠し、あたしは唇を尖らせる。


「だって、なんか不毛じゃない。相手には奥さんいるんだし……」
「そうね……確かに不毛かも」


コンロにかけたやかんが鳴ると同時に、ダイニングテーブルの携帯がブルブルと震える。
ぱかりと液晶を開いて、メールを見たのだろうか、こちらを向いた姉の顔が歪む。


「……どうかした?」
「ううん、何でもない」


乱暴に携帯を閉じ、コンロのやかんからセーバーに円を描くようにお湯を注ぐ。
それを何回か繰り返して、ようやく淹れ終わったのだろう。
キッチンの棚からカップを二つ取り出して、セーバーと一緒にこちらに持ってくる。


座ると同時に、ピンクのカップをあたしに差し出した。
姉の持つ青は、あの男のもの。妹にも使わせたくないらしい。


面白くない気持ちになりつつも、素直にカップを受け取り、コーヒーを注ぐ。
一緒に持ってきてくれたスティックシュガーとミルクをたっぷりといれ、あたしはほっと一息をつく。
角砂糖ひとつの微糖コーヒーを優雅にすする姉は、カップを置いて微笑んだ。


「でも、楽しいわよ。遊びだからね」
「……本気になったりしないの?」
「さぁ?」


あたしの質問に、姉は悪戯に笑みを深くする。
初めて見る姉のそんな顔に、あたしは目をそらす。


「さぁって……」
「相手はどうだか知らないけど、私は本気になったりしないから」


そう言う姉は、自分の声が硬くなっていることに気づいているだろうか。
普段より憂いた顔で笑っているのを知っているのだろうか。
きっと気づいていないだろう。


そんな顔をするくらいなら、あの男と別れてしまえばいい。
そうすれば、色々なものを諦めたような顔で笑わなくたっていいのに。
姉は、こんな日陰で朽ち果てるような恋じゃなく、堂々とお日様の下を歩けるような恋が似合う。


でも、姉がすきなのは、奥さんがいるのに、姉に手を出すような男で。
手を出したのに責任をとらない、ダメな男で。
傷ついてることもしらずに、いま自分の家族と笑っているかもしれないのだ。


あたしはそれが許せない。
姉をこんなにしておいて、自分だけ幸せになろうだなんて、許さない。
あたしの姉を独占して、傷つけて、その上で捨てようなんて。


力の入りすぎた両手を開く。
くっきりとついた爪の痕は、あたしの怒りを如実に表していた。


「突然そんなこと聞くだなんて、興味でもあるの?」
「別に……、ただ気になっただけ」
「なら、いいんだけど」


傾げた首から姉の長い髪がさらりと零れる。
その刹那、ちらりと見えた鬱血にあたしは唇を噛んだ。
口の中に広がる鉄の味に、コーヒーカップを手に取る。


「ねぇ、真琴」
「何?」


神妙な顔をしてこちらを見る姉に、あたしも飲んでいたコーヒーをテーブルに置いた。
ためらうような素振りで視線を落とし、姉はひとりごとのように呟く。


「あなたが将来、奥さんがいる男性を好きになったとしても、その恋は諦めたほうがいいわ」
「……どうして?」
「我に返ったときに、少しむなしいからよ」


完全に俯いてしまった姉の髪が、その頬にかかって表情をちらりとも見せない。
けれど、隠し切れない震えた声が、姉の心情をあたしに伝える。


やめたらいいのに。手を離してしまえばいいのに。
虚しいと思うなら、どうしてやめないのか。


答えは簡単だ。
まだ好きだから。大好きで離したくないから。
あの男を愛しているから、辛くても、虚しくても、やめられないのだ。


それが悔しい。
嫌いになってしまえばいいのに。嫌われてしまえばいいのに。
嫌われて捨てられて泣いて、あたしに頼ってくれたらいい。


そんな不毛な恋はやめて、あたしを好きになって。
そうしてくれたら、幸せにしてあげるのに。


行き場のない思い。伝えられない気持ち。
あたしの心は渡したって受け取ってもらえないと知っている。


俯く姉に代わりのティッシュケースを渡す。


「やめたら?」
「……やめられないの」


受け取ったティッシュで、涙を拭った姉の顔は、笑っているのにどこか物悲しく。
恋にひどく疲れているように見えたのは、あたしもそうだからかもしれない。


(10.03.05)
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【30.指】


研究室の中は息苦しくなるほどに静かだった。
室内にいるのは自分だけではないはずなのに、話し声ひとつしない。


資料整理を頼んだゼミの生徒は、普段はおちゃらけてよくしゃべる子だ。
けれど、集中すると周りがよく見えなくなるらしく、しばしば話しかけても気づいてくれない。
今も、私はもう5回話しかけているが、毛ほども気づかないようだった。


仕事のし過ぎなのか、他の何かのせいか、少し疲れていた。
気づかれないだろうが、聞こえないようにため息をつく。
立ち上がり、一心にキーボードを叩く背中に近づいて、声をかけた。


「伊川くん、休憩ですよ」
「えっ、あっ、はいすみません」


びっくりしたのか体を飛び上がらせて、にへらと頼りなく笑う青年に苦笑する。
パソコンを休止状態にする伊川くんを横目に、自分の机に戻った。


机のそばのコーヒーメーカーには、一人分のコーヒー。
体質的にコーヒーを飲めない彼のために湯を沸かす。


その間伊川くんは、てきぱきと机の上を片付け、近くの戸棚からマドレーヌの袋を出した。
小包装されたマドレーヌを適当に並べ、伊川くんの分のマグカップを用意した頃、タイミング良くポットの電源が切れた。


ティーパックの入ったマグカップに沸騰したお湯を注ぐ。
程なく香るフローラルな匂い。
どうやらハーブティーのようだった。


「教授もマドレーヌ食べますよね?」
「食べますよ。はい、熱いですから気をつけて」
「ありがとうございます」


伊川くんにマグカップを渡し、自分のカップにもコーヒーを注ぐ。
広がる匂い。深いコクと程よい苦味。酸味を控えめにした自分で焙煎したブレンド。
自他とも認める飲みやすいそれは、研究室でも好評だった。


このブレンドを飲むために研究室に寄る院生もいるくらいで、いつも多めに作ってある。
けれど、今日は来訪者が多かったせいか、自分のカップに注いだ分で空になる。
時間はもう遅い。新たに作る必要はないだろう。


「教授に聞きたいことがあるんですけど」
「何ですか?」


先にいすに座り、伊川くんは早々とマドレーヌにかじりつく。
飲み込むと同時にむせた伊川くんは、あわてた様子でマグカップに手を伸ばした。
危ないと思ったその瞬間、マグカップが傾いて中身を床にこぼす。


「熱っ!」


火傷をしたのか指をかばう伊川くんの腕を引き、流しに急ぐ。
研究室を出てすぐのトイレに駆け込み、思い切り蛇口をひねった。


「すみません」
「謝る必要はありません」


赤くなった患部に流水を止め処なくかける。
今のところ、水ぶくれにはなりそうにない。軽度の火傷だろう。
そのことにひとまず安心する。


水がしみるのか痛そうな顔をする伊川くんに、私は苦笑いした。


「あわてて行動すると、またこんなことになりますよ。まぁ、気持ちはわからなくないのですが」
「はい、すみません……」


申し訳なさそうにまた謝罪をする伊川くんに呆れる。
さっき謝らなくていいと言ったのに、もう忘れているらしい。
声もなく笑った私をいぶかしげに見る伊川くんに私は指摘する。


「また謝罪してますよ」
「あ……。ついクセで謝っちゃうんですよね」


バツが悪いのか少し照れたように笑う伊川くんの指は相変わらず赤い。
男らしくない細長い指は、一部が赤くなっていて、美しいだけに残念だった。


「指はもう痛くないですか?」
「はい、もう大丈夫です」


その言葉に流しっぱなしだった水を止める。
取り出したハンカチで患部をひっかけないように丁寧に拭いた。


水に浸したせいかふにゃふにゃになった皮膚は、少し脳の表面に似てると思った。
ふやけた皮膚を見て脳を想像したと言ったら、この指の綺麗な青年はなんと言うだろう。
さすが教授と呆れた顔で笑うだろうか。
もしくは、あの子だったなら、他の反応を見せるのか。


軽く首を振って、伊川くんと研究室に戻った。
思考を切り替えるために、てきぱきと手当てを始める。


「手を貸してください」
「……ありがとうございます」


戸棚の中の救急箱から軟膏を取り出し、患部に塗りこむ。
ちらりと伊川くんを伺うと、少し痛いのか、顔をしかめていた。
それを見ながら、軟膏のふたを閉め、手をぬぐう。


「もう切り上げていいですから、病院に行ってきなさい」
「えーオレ病院苦手なんですよー」
「その気持ちはわからなくないですが、私がしたのは応急処置ですから。一応行きなさい」
「大丈夫ですって、もう教授に薬塗ってもらいましたし」
「でも、そのきれいな手がただれてしまったら私は悲しいですよ」


行きたくないとダダをこねる伊川くんをなだめながら、床にこぼれたままのハーブティーを雑巾で拭く。
自分でこぼしたものを私に拭わせるのは嫌なのか、伊川くんは私の手から雑巾を奪い取ろうとする。
それを視線で制し、一緒に持ってきたバケツの上でそれを絞った。
まだ濡れたままの床を絞りたての雑巾で拭いて、バケツの縁に雑巾をかける。


こぼれたものをすべて拭いてしまったのが気に食わないのか、伊川くんはふてくされてしまったようだった。


「そんなに褒めたってオレは病院行きませんよー。そういうことは教授のこと好きな女にでも言ってください」
「いませんよ、そんな人。だから、伊川くんに言っても大丈夫です」


手持ち無沙汰だったのか、子包装のマドレーヌを大袋に戻していた伊川くんが手を止める。
ゆっくり振り返った伊川くんの、信じられないものを見るような目とぶつかる。
どうしてそんな顔をされるのか。まったくわからなかった。


「……教授、気づいてないんですか?」
「何のことでしょう?」
「……あぁ、そういうことですか」


自分の中で合点がいったのか、唐突に冷たい目をした伊川くんに、私はいっそう混乱した。
いつもおちゃらけて、笑顔ばかりを見せる青年の、そんな表情は初めてだった。
私の何かが彼の沸点に触れたのだろうか。
訳が分からない私を見て、伊川くんはいっそうイラついたのか、ぶっきらぼうに言った。


(あお)のこと、振ったんでしょう?」


糾弾するような伊川くんに私は固まる。
なぜという言葉が喉元まで出かかったが、すんでのところで止める。


あの子――宮木藍くんは伊川くんの友人だ。
恋愛相談のひとつやふたつ、友人なら当たり前にするだろう。
けれど、それが少し気に食わない。


どんな顔で、どんな気分で私のことを話したのだろう。
泣いていたのだろうか。笑ってたのだろうか。
もう嫌いになったとでも言っていたのか。


お付き合いはお断りした。
それはこれからも変わらない。


私は彼女の恋人にはなれない。
けれど、他の誰かが恋人になるのは許せないと思った。


自分勝手なことを思う私を知ってか知らずか、伊川くんは私を責める目をした。


「藍が最近研究室に来ないのも、ゼミの最中に沈んだ顔してるのも教授のせいですね?」
「……だったら何だって言うんです?」


断定する口調に挑発するような言葉をつむぐ。
それにカチンと来たのか、伊川くんは怒りをないまぜにして笑った。


「やっとオレにもチャンスが回ってきたってことでしょう?」
「チャンス?」
「えぇ、そうです。オレは藍が好きなんです。教授は知らなかったでしょう?」


ストレートに好意を示す伊川くんを素直にうらやましいと思った。
私はもうこんな風にまっすぐに誰かを想うことなどできないだろう。


この前、宮木くんに言ったことは大体が嘘だった。
自分に生殖能力がないのを知ってから、私は女性と実に適当な付き合い方をしてきた。
発覚当初付き合っていた恋人とは、これのせいもあって別れてしまった。


それからは、遊んで飽きてはまた別の女性を恋人とし、転々とした。
女遊びに飽きて、落ち着いたのはここ10年くらいだ。


だから、嘘。抱こうと思えば誰でも抱ける。
けれど、宮木くんは抱こうとは思えない。


大事な生徒だ。大事な女性だ。
傍にいてくれるといったこと、嬉しいとおもった。
不器用な同情、泣く仕草すら可愛らしいとおもう。
でもそれだけ。


臆病な私は、自分の引いた線の向こうに足を踏み出せないでいる。


「……知りませんでした。伊川くんは宮木くんに告白しないんですか?」
「……っ!? 告白したって振られるだけでしょう!」


私の突然の質問に、伊川くんは顔を真っ赤にする。
その返答にそういわれてみればそうかと納得した。
きっと宮木くんはまだ私を好きでいてくれて。
それが分かっていてなお、わざわざ玉砕しに行く必要はないだろう。


「そう、ですね……」
「今はまだ、藍は教授が好きです。でも、いつかオレがもらいます」


自信に満ちた瞳で好意を語る伊川くんは、近い将来、きっと宮木くんを幸せにするだろう。
私はそれをただ眺めていることしか出来ない。


彼のように好意を口にし、隣に恋人がいる。
そんな当たり前の幸せをどうして私は手に入れられないのだろう。
答えは簡単。自分が望んでいないからだ。


子宝を授かることが全て幸せだと思わない。
けれど、産みたくても産めないことは彼女を苦しめるだろう。
必ず先に逝くだろう私は彼女を苦しめることしかできないのだ。
そんなことになるくらいならば、近寄ることもしない。


すべて自分で決めたことだった。


「教授は好きじゃなかったんですから、いいですよね?」
「……私の許可などいらないでしょう。伊川くんの好きにしてください」


私の投げやりな拒絶に、伊川くんは眉を吊り上げた。
また何かが沸点を掠めたらしい。


「教授、不躾なこと言ってもいいですか?」
「……いいですよ」


前置きをした伊川くんに、私は心の中で身構える。
どんなことを言われるのかまったく予想がつかない。


「土俵に上りもしないで傍観者気取り。あんたのそういうところが嫌いだ。反吐がでる」
「……そうですか」
「そうやって大人ぶってるところも頭にきますよ、教授」


敬語のなくなった伊川くんは、ひどく冷たい口調ではき捨てた。
自分でも嫌な部分を指摘されたからなのか、失礼なことを言われても全然腹が立たない。


私の冷静な様子が癇に障ったからか、伊川くんはてきぱきと帰り支度をする。
病院に行きたくないと言っていたときと同一人物とは思えない。
幸い今の時期はそんなに忙しくない。彼が帰ってしまっても大丈夫だった。


「帰ります」
「……病院に行きなさい」
「軟膏、ありがとうございました」


私の言葉に、伊川くんは頭を下げ、足音を鋭く立てて退出する。
彼の体が見えなくなってはじめて私は肩の力を抜いた。


宮木くんは肝心なことを伊川くんに伝えなかったらしい。
私が生殖能力がないことを理由に宮木くんの告白を断ったこと。
それを伝えていれば、ここまで突っかかれることもなかっただろう。


律儀な宮木くんのことだから、私の事情を人伝に教えるのはよくないとでも思っていそうだ。
そのおかげで迷惑を被っていては意味がないのだが、実に彼女らしい。


無駄にこわばっていた肩を回し、苦笑する。
こんな疲れているときこそ、宮木くんに会いたかった。


置いていくのが怖い。彼女が泣くのが怖い。
いつか他の、彼女に子供を作ってあげられる男に取られるかもしれないのが怖い。
そのときに自分が泣くのだって怖かった。
半世紀近く生きていて、こんなに怖いのは初めてかもしれない。


もういっそ伊川くんや他の人が幸せにしてあげればいい。
でも、それに嫉妬する。


どうしていいか分からない。
そんな状況だというのに、なぜか笑えてしかたない。


「さて、雑巾を洗いますか」


雑巾をかけたバケツの取っ手をとり、研究室の扉を開ける。


問題は増えた。頭は痛い。
けれど、心は軽い。


今なら、宮木くんが好きだと素直に認められる気がした。


(10.10.09)
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【31.爪】


ちりんちりん


爽やかな鈴の音が邸中に響く。
その音が鳴ると同時に俺は部屋を後にし、主人の下に急ぐ。


部屋のふすまを叩き、返事を聞くと共にそれを開け、隙間に身体を滑らせる。
畳張りの部屋に不釣合いなベッドの上、足を組んで俺の主人が待っていた。
ひどく不機嫌そうな顔で。


「遅い。何分待たせたと思ってるの?」
「……どれくらいですか?」
「5分よ」


この部屋の端に設置されている使用人を呼ぶ用の鈴は、昔はよく使われていたらしい。
けれど、この邸で今もその鈴を使うのは、俺の主人だけらしい。


人権の問題やその不便さから使わなくなって久しいそれを、俺の主人は楽しがってやっている。
本人曰く『従属させている気がしてえらく気分がいい』と言っていたから、おそらくやめてはくれないだろう。
これからもその鈴を使って、俺に無理難題を押し付けてくるに違いない。


今もそう、俺は理不尽なことを言われている。
世のお嬢様方は、みんな俺の主人みたいに我侭なのだろうか。
人間的にできた方もいるはずなのに、どうして俺はこんなお嬢様に当たってしまったんだろう。


神様、仏様、マリア様。
普段からいい行いをしている(はずの)俺にもっと優しくして下さったっていいではないですか。


思わず現実逃避をしてしまったが、ほどなく現に戻ってくる。
イライラと貧乏ゆすりをする主人に、俺はため息をつきながら言った。


「この邸は広いのです。5分で邸の端から端まで来る私を評価してほしいのですが……」
「だから、私の部屋の隣に移ってくればいいって何度言ったら分かるの?」
「それは……」
「ほら、そうやって貴方が嫌がるからいけないんだわ」


やぶへび。
鬼の首を取ったように勝ち誇った表情でこちらを見る主人に、俺は自然と肩を落とす。


仮にも年頃の男女が、一枚のふすまを隔てた隣同士に住んでいるのはまずいだろう。
しかも彼女はこの家の跡継ぎ候補だ。
しかるべき時に、しかるべき人と結婚するまで、黒い噂は避けたほうがいいのだ。
そう思っていたというのに、相変わらず主人は俺の色々な気持ちに疎いようだった。


落胆して視線を落とす俺に、悪いと思ったのか、主人は気まずそうに手招きをした。


「……もういいわ。そんなことで呼んだんじゃないのよ」
「……はい、何か御用で?」
「爪、塗って」


単語単位の命令に、気持ちを入れ替えた俺は快く膝を付く。
そして、その小振りな足を持ち上げ、顔を近づける。
ベッドサイドには、綺麗なマニキュアが何本もディスプレイされていて。
爪に塗られるのを今か今かと待っているように、蛍光灯を弾いてキラキラと光っていた。


「今日は何色がよろしいですか?」
「……ピンク」
「かしこまりました」


可愛らしいボトルのピンクのマニキュアを掴む。
蓋を開け、中身を控えめな大きさの爪に少しずつ塗ってゆく。


親指が終わったら、人差し指。中指に薬指。小指、次は反対の足を塗る。
最後に手を残し、同じように塗ってゆく。
ムラにならないように丁寧に。その形に添って、手の華奢さを引き立てるように。


全て塗り終わったのを確認して、主人は乾ききっていない手の爪に息を吹きかけてゆく。
すぼめられた唇が丸く尖って、無意識に俺を挑発する。
それに魅せられ、足にまた近づいてゆく。
その行動を疑問に思ったのか、首を傾げた主人を無視して、俺はそれに顔を寄せた。


「きれいですね、ピンクに染まった貴女の爪は……小さくて桜貝みたいだ」
「んっ……」


俺が爪に唇を落とすと、妙に切なげな吐息を漏らす。
それを聞いて、俺は口付けた爪ごと指をくわえ込んだ。
指の付け根を舌で舐めると、主人は頬を上気させ瞳をうるませた。


「どうかしましたか?」
「……反対も塗って」
「……かしこまりました」


意地をはって本当の望みを言わない主人に、俺はクスリと笑う。
その笑みになおさらへそを曲げたのか、ふくれ面をする顔がとても愛おしくて。
今日こそ手を出してしまいそうだと、どこか他人事のように思った。


(09.08.19)
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【33.心臓】


「すみません! ここに中森康平が事故で運ばれたって聞いたんですけど」


受付に座る看護士に恋人の名前を告げる。
急いできたせいで髪が乱れた私をちらりと見て、看護士はマニュアルみたいな笑みで言った。


「……奥様でしょうか?」
「え?」


言われたことの意味がとっさに分からず私は聞き返す。
息を整えながら聞く私に、看護士は柔和な笑みのまま続ける。


「……ご親族の方ですか?」
「えーっと、その……恋人なんですけど」
「申し訳ないのですが、規則でご家族以外の方にはお話できないんです」
「……そう、なんですか」


看護士の事務的な言葉にさっきまでの勢いをなくす。
呆然としたままお礼を言って、待合室のソファに腰をかける。


康平が事故にあったことは、伝言ゲームみたいに友人から伝わった。
私は家で彼の帰りを待っていて、その連絡を受けて、とりあえず病院に来た。
共通の友人は彼の実家に寄ってから来るらしい。
それまで一人で待たなければいけないことがとても重かった。


言われたことを反芻する。
恋人は、家族じゃない。
分かっていたことだけど、改めて他人に突きつけられたことで実感する。


彼の家族の連絡先を知っていればいいが、私は友人と違ってそれすら知らない。
こういうときどうすればいいのかまったく分からないのだ。


彼について知っていることは少なくない。
けれど、康平は本当に大事なものは何一つ私には預けてくれない。
分かってる。これは私の我侭だ。


ないがしろにされているわけじゃない。
大事にされている方だろう。
ただそこまで頭が回る人じゃない。
自分がそういう事態に陥ることを想像できないだけだ。


「佐藤、早く来て」


友人の名前を呼んで、壁にかかる時計に目を向けた。
面会時間は午後八時まで。
時間が過ぎたら面会札もつけていない私は追い出されてしまうだろう。
電話をくれた友人が早く彼の家族を連れてきてくれることを祈る。


無事でいてくれたらいい。
どうか無事でいてくれたらいい。
彼は私の心臓なのだから。


(11.05.22)
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