【34.みぞおち】
「この家とももうお別れか」
「……」
「案外短かったな……」
ダンボールが並ぶ自室に、俺の声が静かに落ちる。
返答はない。
不審に思って、隣に座る沙織に話しかけた。
「なぁ、沙織聞いてるか?」
「……」
「おい。どうかしたか?」
微動だにしない沙織の肩を左右に揺する。
抱えた膝の間から顔を上げた沙織は、責めるような目をして俺を見た。
「どうして笑ってられるの?」
「沙織?」
「何でそんなに平気そうなの」
追い詰められた顔をした沙織は、こちらに手を伸ばし俺の肩を掴む。
強い力で握られた肩。痛みに眉が歪む。
「もうお別れなのに、あんたはどうしてっ」
「……また会えるじゃん」
握られた肩から意識を外して、俺は努めて冷静に話す。
痛みより今は沙織を落ち着かせるのが先決だ。
いつもと違う状況に少し情緒不安定になっているだけだ。
「会おうと思えば、会いたいと思えば会えるだろ?」
「でも……」
「沙織は俺には会いたくない?」
まだ納得しない様子の沙織に、俺は優しく問う。
俺の態度に溜飲が下がったのか、肩を掴んだ手を元に戻した。
痛む肩を前後に回す俺に、沙織が膝を抱えて話し出す。
「……会いたいけどっ、父さんが」
「……」
「あんたに会うなって……もう姉弟じゃないから」
あの人――父だったあの人は、そう言うだろう。
最初のうちは、俺のことも可愛がってくれていた。
でも、俺の母と仲が悪くなるにつれ、母似の俺を見るのも不快になったのか、俺に冷たくなった。
ここ二、三年の元父の俺に対する態度は本当にひどかった。
それを見て母も離婚を決意したのだろう。
俺たちは明日、ここを出て行く。
母と俺の二人。沙織を置いて。
「わたしたちはもう他人だから、会うなって……」
「沙織」
「わたしはどうしたらいいのっ!!」
「沙織!」
突然立ち上がり、沙織は積んであったダンボールを端から床に落としてゆく。
時刻は真夜中、母は寝ているし、ご近所にも迷惑だろう。
壊されたダンボールは穴があき、出発前にいくつか新しいダンボールが必要になりそうだ。
忌々しそうにダンボールを殴りつける沙織の手を掴む。
掴まれた手を振りほどこうと、沙織はでたらめに暴れる。
力なく握った拳が、俺のみぞおちに決まる。
「あんたはわたしの弟よ! でも、もう何のつながりもない」
「沙織!」
「別れた夫婦が他人なら、わたしたちなんてもっと他人じゃない。血はつながってないし顔も似てない。たかが10年一緒に暮らしてきただけの赤の他人なのよ!」
叫びながら暴れる沙織を落ち着けようと、俺は無理やりその体を抱きしめた。
拘束から逃れようとする姉を、俺の胸に思い切り押さえつける。
「……息できないっ! 放して!!」
「俺の話を聞いたら、放す」
その言葉に、姉はやっと暴れるのをやめる。
姉の様子に安心し、力を抜く。
そして、改めて姉の身体を抱きしめた。
「……それでも、重ねてきた時間はなくならないだろ」
「慎太」
「俺たち……姉弟じゃないか」
たとえ共にはいられなくても、過去は消えてなくなったりしない。
これからの未来だっていくらだって作れる。
俺たちが姉弟だってことは誰にも邪魔できないはずだ。
俺の胸に顔をうずめる姉の頭を、ゆっくりと何度も撫でる。
その手をよけ見上げた姉の目には涙がたまっていた。
「……だって、もう家族でもなんでもないんだよ」
「沙織」
「不安なの。姉弟でも何でもないわたしたちが、これからどこに行くのか」
俺の胸にすがる姉からすすり泣く音がする。
安物のTシャツ、みぞおちが少しずつ濡れていく。
「泣くな」
「っ……」
「泣くなよ。頼むから」
泣くじゃくる姉に心が揺らぐ。
こうしている間にも別れは刻一刻と近づいてくる。
一人で抱えるにはあまりに難しい問題に、俺は途方にくれるしかなかった。
(11.02.19)
【35.へそ】
大喝采を背中に浴び、グラウンドを後にする。
与えられた控え室へ戻る途中、知り合いを見つけた。
「智也?」
「お疲れ、のぞみ。よかったよ」
先に行くチームメイトに礼を言って近づく。
智也のそばは、さっきまでの試合のせいか、こもった土の匂いがした。
「見てたの?」
「うん、最後のスタンツが特にすごかった」
最後、トップに立つ私が高く宙返りをした大技は、成功した瞬間、会場中を沸かせた。
失敗したら大事になるだろう、この技をするのに、怖くなかったといえば嘘になる。
出番がくる直前まで緊張で飲み物さえ口に入らなかったのだ。
けれど、下で支えるチームメイトの手を離れ、空を一回転したときの気持ちよさと言ったら、言葉にしようがない。
世界が反転し、体が軽くなるあのときときたら、病み付きになりそうだった。
「猛特訓したんだから当たり前でしょ?」
「うん、でも、やっぱり見えないんだね」
「え……何が?」
不満そうな智也の表情に、私は首を傾げる。
ぼぅっと私を一瞥し、智也は微笑した。
「スカートの……」
「スパッツ履いてるんだから、見えるわけがないでしょう……」
皆まで言わせず突っ込んだ私に、智也が眉尻を下げた。
智也に、スカートの中身を気にする色気があっただなんて驚きだ。
馬鹿なクラスメイトならいざ知らず、智也にも下心があっただなんて。
ぼーっとしているくせに、脳内はきちんと17、8の男の子だったのか。
私がひとり衝撃を受けている間、智也は眠そうに大口を開けてあくびをする。
汚れたユニフォームで寄っかかる智也のせいで、白い壁は所々土色になっていた。
智也の着たユニフォームの比較的白い部分を引っ張る。
「ねぇ、次の試合勝てそう?」
「うーん、五分五分」
「強いんだ?」
「まぁ、去年の県大の優勝者だし、強いんじゃない?」
眠気が覚めないのか、目をごしごしと擦る智也からは、県大優勝者と試合をする緊張感など微塵も見当たらない。
大物なのか、ただの馬鹿かと聞かれたら、間違えなく智也は後者だろう。
余裕をかましている智也の肩を力をいれずに小突く。
「応援してあげたんだから勝ってよ」
「……頑張る。だから、もっと応援して」
「はいはい、客席から応援してあげますよ」
廊下に設置してある時計をのぞくと、試合が始まる時間が近かった。
控え室に戻ろうと、智也を見上げる。
薄く微笑を残した顔に、私の鼓動が一時跳ねた。
「ねぇ、のぞみ」
「う、うん?」
ドキマギしながら聞き返したと同時に智也の体が動く。
長い手がするりと伸びたかと思うと、くすぐったさがお腹を横切った。
「ひゃっ!?」
「へそ、きれいだね」
へそを出した衣装のその部分を撫でた手にチュと口付けを落とす。
一連の智也の動作を固まってみていた私は、それに顔を茹でタコにした。
「後でね」
「ちょっ、待て、このセクハラ魔人っ!!」
ひらひらと手を振り、楽しそうに去っていく野球帽。
その背中に私は勢いよく中指を立てた。
(09.07.29)
【38.腰】
「明日から冬休みか」
「今年ももう終わりだね」
寒さに震える花村の座るパイプ椅子が、キシリと音を立てる。
室内であるにもかかわらず芯から冷える生徒会室は暖房の効きが悪かった。
「寒いと冬って感じがするな」
「うん、この間まで暖かかったよね」
年季の入ったワープロに今月の支出を打ち込む花村が手を合わせ息を吹きかける。
よっぽど寒いのだろう。
元々体温の高い俺は、昼間後輩から押し付けられたカイロを花村に放り投げた。
「やる。少しマシになるだろう」
「……ありがとう」
受け取ったカイロを至極大事そうに抱えた花村を横目に、定例会の報告書を見た。
体育委員長と風紀委員長がまた言い争った以外、とくに変わったことはない。
心配事といえば、来年から図書委員が始める『一人一日一冊運動』なるものが成功するか否かぐらいか。
まぁ、今年の委員長は優秀な奴だ。放っておいても成功するだろう。
書類の束から目線を上げ、肩を回し息をつく。
それと同じタイミングで花村もワープロを閉じた。
「もう今日はここまででいいだろう」
「……」
「そろそろ帰り支度をしようか、空もすっかり暗いしな」
プリントが散乱した机を整理整頓し、糖分補給にあけていた袋入りチョコレートに封をする。
ちり紙をゴミ箱に、ペットボトルをリサイクルボックスに片付けて、俺は学生かばんを手に取った。
「君が良かったら、途中まで送ってく」
「……」
「花村?」
窓にかかったブラインドを上げ、そのまま夕空を見上げる花村に俺は固まる。
いつも何も考えていなさそうな花村だけに、真剣と呆然の中間みたいな表情に驚く。
それと同時にひどくイラついた。
その目は何を映しているのか。
恋焦がれるような顔で誰のことを考えているのか。
君はどうしていつもここじゃないどこかを見ているのだろう。
一番時間を共にしているのは俺なのに悔しい。
こっちを見ろ。
苛立ちに足音を荒く立て近づく。
「えっ、やっ、何?」
「……誰のことを考えていた?」
突然の大きな音に驚いた花村の腰に手を回す。
それにようやくこちらを向いた花村に俺は満足して笑った。
「やっと俺を見た」
「……」
「君は、何を見ている」
まだ事態が飲み込めていないのか、照れているのか花村のまばたきが増えた。
戸惑う花村を見下ろし、俺は質問を重ねる。
「目をあわすのが怖いってわけじゃないだろう?」
「うん、だって、童顔でたれ目の向井さんのどこを怖がるって言うの?」
「……俺だってな、本気で怒ったら怖いんだぞ」
「はいはい」
人が気にしていることをさらりと言う花村に内心ガクリときた。
その言動が花村の策略であると分かっていなければ、ショックのあまり手を放しそうだ。
抱いた腰は女らしくくびれていて、自分の行動がいかにセクハラかわかる。
けれど、こうでもしないと花村はのらりくらりと逃げるのだ。
今まで散々逃げられてきているから彼女の行動は良く知っている。
「君は、毎年冬になるとそういう表情をするな」
「そういう表情って?」
「言葉にしにくいが、少し困った、悲しそうな笑顔……ほら、今もだ」
俺をからかって楽しそうだった顔に困惑が混じる。
本人に自覚はないだろうが、中高一貫校で五年も一緒にいるのだ。
鈍感だと酷評される俺でもさすがに気づく。
「何か、あったのか?」
「……向井さんには関係ないよ」
「……」
にこやかに拒絶を示す花村に分かりあえないことを知る。
こんなに長く側にいるのに知れば知るほど分からなくなる。
俺が近づく分、花村が遠ざかっているようだった。
「君は……」
「ん?」
「何を考えてるんだ?」
君が見ているものを見たい。
そう言っても君は見せてくれないだろう。
五年間で縮まった距離はわずかだ。
いま密着していることがありえないほどに。
「俺は君のことが知りたい」
「私は、向井さんには教えたくないよ」
「……平行線だな」
真面目に話す俺に、あくまで誤魔化す花村。
言い合いの馬鹿らしさにため息をつき、俺は手を離した。
(11.01.18)
【39.尾てい骨】
汗が飛んだ。
身体中もうベトベトだった。
跨った彼の身体も私と同様でそれが愛しさを煽る。
動作を止めた私を急かすように彼の手が伸びた。
敏感な場所。摘まれて中が跳ねるのが分かる。
仕方なく再開すると、彼が応えるように大きくなった。
何時間、こうしているだろう。
感覚と思考が段々とマヒしてきている。
でも、それがかえって都合がよかった。
気持ちいいから、もう何も考えなくてすむ。
この時間は、何もかも忘れたフリをしていたかった。
少しの間だけ、辛いこと、悲しいこと、全部忘れたかった。
腰を浮かして、体重を思い切りかけると、深く刺さる。
響く水音。
快楽に甘やかされた身体は、簡単にイってしまいそうだ。
尻の肉が薄くて、尾てい骨があたる。
それすらも気持ちよかった。
問題を先送りにして、快感のみを貪っていたい。
焦らして、焦らして、そうやって奥を抉ってほしい。
飛び散る体液にまみれて、私の思考が曇っていく。
擦れる恥骨。気持ちよくて涙が出た。
終わりに向かって加速する身体。
弛緩する私。意識は甘くほどけた。
(12.12.15)
【41.太もも】
「克彦ー来たぞ」
「入るよ、克彦」
呑気な侵入者の声に、俺はそれをベッドの下に思い切り押し込む。
ほどなく開いたドアから覗く二つの学生服。
不審に思われないようにゆっくり振り向くと、不思議そうな顔と面白がっている顔にぶつかった。
「ねぇ、今隠したの何?」
「なっ何でもねぇよっ!!」
「何でもないなら何で隠すんだよっと、おっ、これは……」
「AV……おとなしそうな顔してエロいね」
「ちょっ、待てって」
せっかく隠したそのDVDを取り出す良隆に、俺を冷ややかな目で見下ろす正信。
その視線に俺は気圧され、黙り込む。
「ふーん、タイトルは……」
「昼下がりの女教師〜無人の理科実験室〜……克彦、年上趣味なんだ?」
「……ハイ」
室内の温度がまた下がる質問に、俺は素直に答える。
部活帰りの二人は、夏休みの宿題もそっちのけで俺を尋問することにしたらしい。
部屋の中央にある机に荷物を放り投げ、良隆はどかっと座る。
その隣に部屋の隅から座布団を引っ張ってきて座った正信に、俺は何となく正座をする。
「女教師好きかー変態だな」
「……良隆だって、巨乳の熟女好きのクセによく言うよ」
「なっ、お前それは言わない約束だろっ!?」
ニヤニヤと俺の性癖をバカにする良隆に、ボソッと正信は呟く。
それに良隆は顔を真っ赤にした。
案外純情なところがあるらしいが、若い身空からその趣味はどうだろう。
俺は複雑な心情を隠して、口を開いた。
「そうか、巨乳熟女好きか……正信は?」
「僕は……幼女は犯罪だからロリ顔の子がいいかな?」
「皆趣味バラバラだな……」
淡々と自分の性癖を告げる正信は、それを恥ずかしいとも思ってないようだった。
その様子に一抹の哀愁を感じ、俺は当たり障りのないコメントをする。
俺の味気のない言葉に正信はちらりと視線を寄越したが、結局何も言わなかった。
「俺の顔がもう少し格好よければな……」
「モテてたかもな」
「一日でいいからイケメンになりたいもんだ……」
「なれたら何するの?」
ため息と共に良隆は不貞腐れたようにベッドに飛びのる。
それを呆れた顔で見ながら、俺と正信は相づちを打った。
格好良くなったとして、良隆の好きな『巨乳熟女』にはお近づきになれないだろう。
でも、この3人とも年齢と彼女いない暦が一緒という状況は多少はよくなるだろう。
誰か一人にくらい『彼女』が出来るかもしれない。
もちろんそれが自分であることを祈るのみなのだが、所詮妄想だった。
「細くて胸のある熟女に抱きつきたい!」
「いや、それより女子高生の太ももを触る! 絶対領域だろっ!!」
「あーその気持ちよく分かる。スカートとニーハイの間の白い素肌、最高だよね」
暑さでやられた頭に、妄想がスパークする。
そうする内に、背後から聞こえたカタっという音に、俺たちは固まった。
それにゆっくりと振り向くと、ドアの前には3人分のグラスを持つ妹がいた。
「お前、何でここに……」
「お母さんが麦茶持っていけって……」
バツが悪いのか目をそらす妹は、嫌そうに部屋に入ってくる。
ちらりと床を見た妹は、一目で不快だと分かる表情で言った。
「それ、仕舞って」
「あ……悪い」
「はい、麦茶」
「あっありがとう」
妹の視線を避けるように、AVを手早くベッドの下に押し込む。
普段の数倍そっけない態度で渡されたお盆を、俺は呆然と受け取る。
よりにもよって聞かれたくない相手に猥談を聞かれるなんて。
年頃の娘らしくいわゆるエロ話に興味がないわけではないだろう。
けれど、女子高に通っているからか、そういう話にお堅い妹は俺たちを冷ややかな目で見下ろした。
「えーっと、夕ちゃん?」
「ごめんね、俺たちそんなつもりはなくて……」
「……お兄ちゃん達の変態」
良隆と正信の必死の弁解に、夕は軽蔑を瞳にのせて冷たく言い放つ。
その言葉に俺たちは無残なほど打ちひしがれる。
言いたいことを言ってすっきりしたのか、夕は足早に去った。
長年一緒にいる妹のご機嫌の取り方さえ知らない。
そんな俺たちに彼女を作るなんて百年は早いのかもしれなかった。
(09.08.14)
【42.ひざ】
「今日帰りたくないな……」
「奥さんが泣きますよ」
わたしを抱きしめながら信人さんがぼやいた言葉に、間髪を入れずに冷たく返す。
1DKのキッチンは二人が重なって立っているだけでもう満杯だ。
背後から漂う恨めしそうな気配を無視して、わたしはコーヒーセーバーに熱湯を注ぐ。
フィルターの中で盛り上がる豆に注ぐのをやめ、表面が落ちるのを待つ。
香り立つ匂いはとても苦く、まるでわたしたちのようだった。
「それは言わない約束だろ?」
「でも、本当のことでしょ?」
二人分のコーヒーが落ちたのを確認して、それぞれのカップに分ける。
信人さんのカップにミルクを、自分のには角砂糖を1つ入れて、お盆の上に置く。
コーヒーが淹れ終わったのを確認し、信人さんは口を開いた。
「真奈……愛してる」
「……奥さんの次にですよね?」
真剣な顔で愛を囁く信人さんから目を逸らし、わたしはお盆を持ち上げる。
目を合わせたら、嘘であろうとなかろうと信じてしまいそうだった。
「……どうして分かってくれないんだ?」
コーヒーのお盆を持っている腕を引かれ、その勢いにひっくり返しそうになる。
それに眉をひそめてみせると、信人さんは素直に手を離す。
これ幸いと部屋の中央のテーブルにカップを運び座った。
後から遅れてきた信人さんが隣に座ろうとするのを目で制し、わたしはぽつりとこぼす。
「だって、信人さんは、奥さんと別れてくれないでしょう?」
「……うん」
悪びれもせずうなずくあなたが、この上もなく恨めしい。
奥さんと別れてくれないくせにわたしも好きだなんて、そんな我侭。
わたしは我慢できない。
「お子さんだってまだ若いし、仲人さんは社内の人だから別れられない」
「……」
「わたしは愛人なんてイヤ。でも、信人さんはわたしを恋人には出来ない」
わたしはあなたの恋人になりたいのに。
愛人なんて、2番手なんて、そんなのはイヤだ。
愛してるけど、あなたが結婚していると知っていて好きになったけど。
でも、わたしはそれに耐えられなかった。
テーブルの上のコーヒーに口をつける。
少し時間の経ったぬるめの微糖コーヒーは、わたしの心をすこしだけ穏やかにする。
カップを元に戻し、わたしは顔を上げる。
「だから、別れましょう。信人さん」
「……ヤダ」
「信人さん、子供みたい……」
あまりに簡潔すぎる拒絶の言葉に、わたしはため息をつく。
どうしたら、この人と別れられるだろう。
これ以上好きにならないように、わたしからこの人を遠ざけられるだろう。
他の人のものだと知っていて、付き合い続けるにはもう限界だった。
たとえ嘘でも、愛しい人を傷つけてでも、わたしはこの手を離したい。
「わたしはもう、信人さんを愛してないんです」
「……嘘つきだな」
「そっそんな嘘じゃ」
「黙れ」
わたしの幼稚な嘘にあなたは大きな手の平で口を塞ぐ。
口に手を当てられたまま床に叩きつけられ、息苦しさと痛みにわたしは顔をしかめる。
わたしを見下ろす信人さんは、どこか追い詰められているようだった。
「妻とは別れられない……でも、真奈と一緒にいたいんだ」
「信人さんっ……」
ボタンを引きちぎる音。ずり上げられた下着。
容赦ない力で開かれた膝にわたしは抗うのをやめた。
あなたがわたしを欲しいというなら、わたしはあなたの傍にいよう。
きっと傷つく。これからも何度だって泣く。
でも、それすらも感じないように、傷をつけて、爪痕を刻んで。
あなたの手垢でぐちゃぐちゃにして。
たった一時の愛でいいから、あなたに蝕まれたい。
最後に残るのは後悔でもいいから、今はただあなたに愛されたい。
わたしに跨るあなたの喉から獣のような吐息が漏れる。
声を堪えたわたしのまなじり、涙がさらりと零れていった。
(10.03.05)
【43.ふくらはぎ】
静謐な気配を宿す院内。
リノリウムの床をパタパタと歩き、たどり着く白い扉。
ガラリと開けると、春独特の緑の匂いがした。
「ハロー」
「あ……風香来たんだ?」
「うん、入院してるって聞いてお見舞いに」
ベッドの上で身体を起こしていた早姫は、パタリと本を閉じる。
それに近寄り、持ってきたフルーツの籠盛りを手渡す。
「これ、良かったら食べて」
「あ、ありがとう」
大きさに戸惑ったのか、早姫は困り顔で手に取る。
ちらりと見たベッドサイドの花瓶は満杯で、やはりフルーツにして良かったようだった。
丸椅子を引き寄せ腰をかける。
「大丈夫? 肉離れだって?」
「うん、ストレッチを念入りにしなかった日にふくらはぎをね」
「……痛かったよね?」
真っ白な布団に隠れた二本の足は、まるで怪我などしていないように見える。
けれど、その下にはたくさんの湿布とテーピングがあるのだろう。
昔同じように肉離れをした私は、その痛みを十二分に理解できた。
怪我をした足を見て早姫はクスクスと可笑しそうに笑う。
「それは、まぁ……。入院する必要はなかったんだけど、コーチがどうしてもって」
「……愛されてるね」
早姫の彼氏でもあるコーチとは、前に一度だけ食事をしたことがあった。
ニコニコと微笑みを絶やさない彼の早姫を見る目がとても温かかったのを覚えてる。
それを見て、この人となら早姫も幸せになれると、私は軽く安堵したのだ。
私の言葉に、早姫は目を伏せる。
「……それはどうかな」
「え……?」
「だって、私当分走れないのよ」
出会ったころから走ることが好きだった早姫は、並々ならぬ努力によってそれを仕事にした。
中高とマラソン選手を務め、大学で陸上部に入り、スカウト。
今では大企業の陸上部の選手として、コーチの彼と二人三脚だ。
走れないと自嘲気味に笑う早姫に、私は困惑する。
「楽しみにしてた夏の大会にも出られない。コーチの期待にこたえられないの」
「早姫……」
「そんな私、愛してくれるわけない」
「でも、それとこれとは別で……」
断定した早姫に否定する私。
私の発した安易な慰めに、早姫は私を睨む。
その目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「一ヶ月以上走れない私に、何の価値があるの!?」
「……」
「もしかしたら、失望されてしまうかもしれないのよ!!」
強迫観念に駆られて取り乱す早姫に返す言葉がなかった。
優しくて落ち着いた早姫が、こんなに声を張り上げるのを初めて見る。
早姫はいつだって冷静で強くて、私はそれが早姫だと、ついさっきまで思い込んでいたのだ。
けれどいま、早姫は声を上げて、流す涙を拭うことなく悲しんでいる。
大切な人を失ってしまうかもしれない恐怖に怯えながら。
「あの人はね、走れない私なんかいらないのよ!!」
「そんなことない! この前だって、あんなに仲良くしてたじゃない!!」
「……だって、走っている私が好きって」
叫ぶ早姫に思わず怒鳴る。
それに一瞬押し黙った早姫は、顔を覆って静かにすすり泣く。
「じゃあ、走れない私は、一番のとれない私は、もう愛してくれないの?」
「それは……」
私を見つめる不安そうな瞳。さめざめと流れる涙。
私は早姫の質問に答えられなかった。
突き刺さる視線が、気まずくて目をそらす。
そんな私に失望したのか、早姫は長くため息をついた。
「分からない……。あの人の気持ちが見えない」
「……早姫」
「怖い。見捨てられるのが怖いよ、風香」
そうやって咽ぶ早姫にかける言葉が見つからない。
戸惑う私のそば、大きく開いた窓から風が一筋吹いた。
(09.10.03)
【44.すね】
時刻は十二時。私は風呂場にいる。
シェービングクリームをつけた肌にシェーバーをゆっくりと当てる。
丁寧に動かせば、すねに一本筋が出来て、白から本来の色に戻った。
一回、二回とシェーバーをすべらせていけば、毛一本もないすべすべの脚が出来上がりだ。
我ながら上出来。
もう片方もやろうとボトルから新しくクリームを出した。
まだ無駄毛の生えている足に満遍なく伸ばし、シェーバーを当てた。
明日(正確には今日だけど)は、待ちに待ったデートだ。
久々に彼に会える。
そのためにマッサージもした。
ネイルサロンにも行ったし、これからお風呂を出たらパックもする予定。
会う前に美容院にも行きたいし、たっぷり寝なくちゃいけないし、何かと大忙しなのだ。
けれど、これだけ努力したって会えるわけじゃない。
元来忙しい人だ。デートの約束をしてたって突然仕事が入ったりもする。
すまなさそうに謝られてしまえば、私はもう何も言えなくなる。
『ごめん。この埋め合わせはするから』
『……うん、お仕事頑張ってね』
それ以外どう返せるだろう。
私ばかりが楽しみにして、私ばかりが好きみたいで嫌になる。
「っ――」
膝頭を剃ろうとした手に力がこもり横にすべった。
肌を切り裂くピリリとした痛みと共にほんのりの血液。
「あーやっちゃった」
シェービングクリームが傷口に入って痛い。
それからは考え事は中断して手早く剃った。
両脚ともすぐにピカピカのすべすべ。
デートの準備が出来ていないの私の心だけみたい。
クリームをシャワーで流し、たっぷり湯のたまってる浴槽につかる。
熱いお湯が傷にしみたけど、我慢できないほどではなかった。
明日会えなかったらどうしよう。
久々に会ったとしても、どうすればいいかわからない。
私はちゃんと彼が好きだろうか。
彼は私のことが好きだろうか。
不安はつきない。夜中の考え事はよくない。分かってる。
私の懸念は、彼と会うことでしか解決できないだろう。
ああ早く彼に会いたかった。
(13.05.29)
【46.くるぶし】
「いらっしゃいませ」
デパートの靴売り場。
背後から声をかけられて振り向く。
そこには背の高い、ネクタイを締めた店員がいて、少し困ってしまう。
男性が苦手で、店員に話しかけられるのも得意じゃないわたしには、これはまずい状況だ。
「何かお探しでしょうか?」
「えっと……職場に履いていけるような靴を探しているんですけど」
「かしこまりました」
しどろもどろになりながら受け答えをすると、店員が売り場の端の靴を何足か持ってくる。
今日買うつもりはなかったし、プラプラと適当に見て回りたかったけれど仕方ない。
覚悟を決めて、ソファに腰をかける。
「どういうものをお探しでしょうか」
「履きやすくて、デザインが綺麗なものをお願いします」
「では、こちらはどうでしょうか」
店員が手に取ったのはアーモンドトゥの紺色の靴だった。
ヒールの高さは、五センチ以上あるだろう。まさしくハイヒールだった。
「お客様は膝頭がほっそりとしておりますし、こういったハイヒールなどはいかがでしょうか」
「わたしには似合わないわ」
「……一度履いてみなければわかりませんよ」
躊躇するわたしを尻目に、彼はハイヒールの緩衝材を抜き始める。
そうして、自分の前に丁寧に揃えられた靴を見てためらう。
履くつもりなんてなかったのに、てきぱきとお膳立てされてしまった。
どうしよう。
「履かせましょうか?」
「え……自分ではけます!」
思わず言ってしまって後悔した。
なんて強引な店員だろう。
すべて彼の思い通りになってる気がする。わたし、この人苦手だ。
並べられた片方を手に取り、足を通す。
サイズなんて伝えてないのにぴったりおさまる。少しだけ寒気がした。
もう一方も履き、ソファから立ち上がる。
「では、お手を」
「ありがとうございます」
戸惑いながらもそう返した。
ほんのり汗ばんだ手を店員の手に預け、鏡の前に立つ。
そこにはわたしの知らないわたしがいた。
「案外似合ってる……」
「いえいえ、とてもお似合いですよ」
彼の賛辞もあまり耳に届かない。
いつもの靴より足が長く、綺麗に見えた。
それに顔が小さく見える。
足首だって細く見えて、冴えないのは表情ぐらいだ。
纏っている服はさっきと一緒なのに何がこんなに違うんだろう。
ヒールひとつでこんなに変わるなんて思っても見なかった。
目を白黒させるわたしに、満足そうな店員の顔。
「お客様は全体的に細いので、こういうタイプの靴が似合うと思ってたのですよ」
「でっでも、こんなハイヒール履いたことなくて」
「大丈夫です。慣れますよ」
軽々しく言われてカチンと来る。
その勢いのまま、わたしは続ける。
「それに足出すの恥ずかしくて」
スカートにハイヒールは、脚に自信のないわたしにはとてもハードルの高いものなのである。
わたしにとって、ほとんど羞恥プレイも同然だ。
普段だってロングのパンツ姿ばかりで、スカートの今日が珍しいくらいなのだ。
「この靴、トレンカとかとでも合いますか」
これだけ似合うものだ。買いたい気持ちはある。
でも、何かで覆ってないと気がすまない。
もちろんパンツ姿でも履けるんだろうけど、トレンカを履けばスカートのときも使えるはずだ。
何かを考え込んだ店員が、そのままわたしの足元にしゃがみこむ。
スカートを覗き込むつもりなのかと思ったけれど、彼はそんなことはどうでもよいらしく、靴をチェックし始める。
かかとが気になるのか、少し触って直し、上を向く。
観察していたわたしと目が合った。
「お客様の脚はお綺麗ですよ。トレンカで隠すなどもったいない」
「っ!?」
ふいうちの言葉に、頭がフリーズする。
頬が上気していくのがわかる。
「すねからアキレス腱にかけてのこのラインが美しいのに。それにこのくるぶし」
わたしの脚をなぞるように指を指す。
ストッキング一枚で彼の前に立っていることがとてもいたたまれなく思えた。
何だかもう戻れない気がする。
「……買います」
「まことにありがとうございます」
わたしの降参とも取れる言葉に、彼は得意げに笑った。
(14.01.13)
【47.土踏まず】
キィーと耳障りな音を立て開く扉。
不法侵入のそれを、慎重に閉め、私はフェンスの端っこまで急いだ。
まだ夜明け前。邪魔が入ることはないだろうが、用心するに越したことはない。
ハイヒールを脱いで、その上に遺書を置く。
こんなときでも靴をきちんと揃えてしまう自分に笑う。
一歩踏み出せば、風に煽られる。
思いなおせと言われているようだったが、私はもう誰にも止められなかった。
土踏まずに触れるビルの屋上は冷たい。
これが私の感じる最後の感覚かもしれない。
覚えていようと思った。
フェンスをよじのぼって、わずか十センチの地面に降り立つ。
バランスを崩せば真っ逆さま。
死のうとしているのにそんなことを心配する自分に呆れる。
なんてことはない。息を止めたい。
飛び降りてしまいたいのだ。
これから訪れるはずの全ての幸福を投げうってでも、いまの不幸から逃れたい。
ただそれだけ。
決意を込めて、顔を上げる。
遠く、山の陰から朝日がのぞく。
世界が光に照らされて、きらきらしていた。
あぁ、空がきれい。
それだけで生きていける気がした。昔は。
今は無理だ。こんな祝福された光景、見てるだけで辛い。
でも、死ぬ前にいいものを見れた。よかった。
「バイバイ」
足に力を入れてとぶ。
あとには何も残らない。
(14.01.21)
【48.つま先】
「ねぇ、和葉」
「んー、いま忙しいんだけど……」
印刷した人数分の楽譜を十二枚一組に分けながら、話しかけてくる鉄平に返事をする。
部活が始まるまでのこの時間、後輩達は授業の真っ只中のはずだ。
わたしたち三年生は、五限目までで授業を終え、講堂で後輩が来るのを待つ。
その間は練習時間もとい自由時間なのだけど、部長のわたしはこうやって楽譜を分けたり部誌を書いたりと何かと忙しい。
それを分かっていて話しかけてくる副部長の鉄平は気遣いというものを知らない。
鉄平が少しでも手伝ってくれたらわたしの負担は減るのに、そんなものを鉄平に期待するだけ無駄だろう。
それが出来る人間だったらとっくにやっている。
三年間待ってこれなんだから、期待できそうにない。
分けた楽譜を脇によけ、生徒会に提出する請求書を手に取る。
あらかじめフォーマットが決められているそれは、見ただけで頭痛がするほど事細かに項目があって、わたしはため息をついた。
ファイルの中の大量の領収書から目的のものを取り出し、のりの蓋を開けた。
これがないと交通費さえ請求できない。
わたしが忙しなく手を動かしていると、座っている机の元へ鉄平が来る。
いつもはピアノを弾いたりして暇を潰す鉄平の珍しい行動に、わたしは首を傾げた。
「どうしたの?」
「和葉、キスしてよ」
「はぁっ……!?」
鉄平の突拍子もない要求にわたしは思わず声を荒げる。
思わず落とした液体のりのボトルを拾い上げて、わたしの前に差し出す。
それを警戒しながら受け取って蓋を閉める。
そーっと鉄平の表情を伺うとわたしの動きを追っていたのか、ばっちり目が合った。
「キスして」
「なっ、え、ここでっ!?」
「うん、ここで」
まるでわたしの動揺なんて予想の範疇だと言わんばかりに鉄平は余裕の笑顔。
焦るわたしと対照的な鉄平の様子が癪に障るけど、態度には出せない。
いまの鉄平は何をするのかわからなくて、色々な意味で怖かった。
相変わらず余裕綽々の鉄平に、わたしは恐る恐る口を開く。
「今?」
「うん、もちろん」
今じゃなければいいなーと思ったわたしの希望はあっさり打ち砕かれ、わたしは額に手を当てる。
お願いだから誰か来てと願うけれど、それは無意味だと知っている。
顧問は出張、後輩は授業。おまけにここは学校の北端にある講堂。
この場から逃げようにも扉は鉄平の背後にあり、勝算は低い。
逃げた瞬間につかまり、ピアノ用倉庫に連れて行かれるに決まってる。
きっと全ての状況を把握して目の前にいるであろう鉄平は、性格が悪かった。
「ここ、学校だよ?」
「でも、誰も見てないじゃん」
最後の抵抗を試みるも、それも簡単に言いくるめられる。
言葉でも鉄平には勝てそうになかった。
わたしに打つ手がないのを知ってか、鉄平は微笑みをいっそう深める。
その表情に、わたしの頬が熱くなった。
「ほら、早く」
「……」
「誰か来ちゃうよ?」
わたしを見る鉄平はまるで獣のよう。
逃げ道を奪ってわたしが降参した瞬間に襲い掛かるのを待っている。
今すぐ全力で逃げたくても、退路は全て断たれている。
でも、降参することもできない。
いくら恋人だって、こんなところじゃキスなんて出来ない。
意地の悪い笑み。吸い込まれそうな鉄平の瞳。
わたしを誘う薄い唇に、思わず顔を近づける。
視界の端に映ったバイオリンに我に返らなければ、キスするところだった。
「……ムリ」
「俺のこときらい?」
「……好き、だよ」
「なら、キスしてよ、和葉」
わたしに向けられた視線、頬に当てられた手は熱い。
それに恥ずかしくなる。
学校でこんな近くに鉄平がいるだなんてあり得ない。
頬に手を当てられて、キスを迫られてるだなんて、おかしくなりそう。
あまりの恥ずかしさに視界が潤む。
そんなわたしの表情を見て、鉄平は呆れたように笑い、手を離す。
「……仕方ないなぁ。和葉の照れた顔が見れただけでよしとするか」
「え……」
「さて、イスセッティングして、楽器の準備するか」
鉄平はわたしから離れ、ステージの奥のイスを運ぶ。
その様子は、さっきまでキスをしようとしていた人とは思えない。
手伝ってくれるのは嬉しいけど、何もいまじゃなくていいじゃないか。
キスするつもりだったんじゃなかったのか。
自分の思考にはたと気づく。
こんなんじゃ期待してたみたいだ。
みたいじゃない。きっとわたし、期待してた。
恥ずかしいけど、鉄平とキスしたかったんだ。
「鉄平」
「んー? イス重いか?」
イスを抱え、背中を見せる鉄平に近づく。
肩を掴んでこちらを向かせ、ネクタイを引っ張る。
驚いた鉄平の顔にクスリと笑い、キスをする。
背伸びしてようやく届く、鉄平の唇。
わたしのつま先は、鉄平の上履きを踏んでいるようだった。
「和葉……」
「ちゃんと好きだよ……」
唇を離し、一言告げる。
急いでプリントを持って、講堂を後にする。
鉄平の唇は、予想と違い、ほんのり湿っていた。
(10.04.15)