金木犀(キンモクセイ)の練り香水 第二話




「そんな所で、煙草吸わな――あなた、この前の」
「……どうも」
 手持ち無沙汰に吸っていた煙草の火を消す。それを携帯灰皿にしまって、立ち上がる。そのついでにちらりと見た彼女は、どうやら困惑しているようだった。
 あの夜から一週間も経っていないというのに、彼女に会いに来てしまった。
 どうにも忘れられなくて、彼女にどうにか会いたくて。道中三十分ほど迷ったけど、この屋敷に着いた。その時ばかりは、自分の運の良さに心から感謝した。
 けれど、何分待っても彼女は出てこなくて。秋の風は容赦なく俺に冷たくて、帰ろうかどうか悩んでいたところだったのだ。
 今日、会えてよかった。会えなかったら、また明日も寒空の下、何十分も待つことになっただろう。
 一週間ぶりに見る彼女は、相変わらず見目麗しい。黄金色の髪が月を反射して、キラキラと輝いている。
「また泣きに来たんですか? 今夜は月が出ていますよ」
 呆れたように彼女は眉を歪める。その心底迷惑そうな顔に申し訳ないと思いつつも、頬がゆるむのを止めることが出来ない。
「……あんた、名前は?」
「人に聞く前に、自分が名乗るのが礼儀というものです」
 ツンっとすましてそう言った彼女は、先夜のときとは違い冷淡だ。けれど、彼女の言ったことも一理ある。あんまり好いていない自分の名前を口にするのは、少しだけはばかれるのだが、ここは従っておいた方が得策だろう。
「優人。優しい人って書いて優人」
「わたしの名前は、……綺羅」
 綺羅。その名前を深く、記憶に刻み込む。美しいと形容しても足りない彼女に、『綺羅』という名はよく似合う。夜に浮かぶ無数の星。俺の心を照らした彼女に相応しい名前だと思えた。
 けれど、綺羅の外見は、どう見ても日本人には見えない。ハーフやクォーターでもないだろうに、どうして日本名なのだろう。『綺羅』と言う名前には、何か意味があるんだろうか。
「それはあだ名か何かか?」
「……昔の恋人が、わたしをそう呼びました」
 ぽつりと、さして面白くなさそうに綺羅は語る。その様子はどこか苦しげで、鈍感だと称される俺ですら、何かあったのだと悟らざるを得ない。
「『私の綺羅』って呼んでくれました」
「……綺羅ってどういう意味?」
 昔、綺羅をそう呼んだ男は、どういった意味を込めて、その名を呼んだのだろうか。そして、あえて今ここでその名を名乗る理由が知りたかった。もしかしたら、その理由は、俺を奈落の底に突き落として、沈ませてしまうのかもしれないけれど。
 聞いた俺に美しい顔を歪めて、綺羅は忌々しそうに呟いた。
「……愛しい人。そういう意味です」
「……」
 言葉とは裏腹に、綺羅の表情は苦い。不機嫌そうな顔の中、一瞬過ぎった淋しさの欠片。見つけてしまったそれに、思わず口から本音が突いて出る。
「あんた、俺の綺羅にならない?」
「……馬鹿も休み休みおっしゃい」
 冷たくあしらわれて、軽く凹む。片手をこめかみに当てて、頭痛をこらえる仕草をする綺羅は、白い目でこちらを見た。その眼光の鋭さに怯む。何言ってんだ小童と言わんばかりに半眼で睨む綺羅を、負けじと俺も真剣に見つめた。それが意外だったのか、綺羅は感心したように目を細めたあと、俺をまた冷ややかに見据えた。
「どうして、わたしがあなたの綺羅にならないといけないのか……」
「俺があんたに惚れたから」
 間髪入れずに答えた俺を、呆気にとられた顔で綺羅は見る。この答えは予想外だったのだろう。二の句が継げないのか、綺羅は鯉みたいに口をパクパクと動かした。その間抜けな顔すら奇麗だ。そして、気を取り直すように首を振り、綺羅は再び俺を睨む。
「どうして……いいえ、わたしのどこが良いと言うのです?」
「……分かんない」
 正直な思いを口にすると、睨む綺羅の瞳がさらに冷たくなる。けれど、分からないものは仕方ない。どこが好きかなんて聞かれても困るのだ。だって俺は、綺羅のどこか一部が好きなわけではないのだから。
 初めて会ったときを思い出す。あまり時間が経っていないのもあって、鮮やかに覚えてる。瞳を閉じれば、わずかな光にキラキラと光る黄金色の髪。
「ただ、初めて見た瞬間から、あんたが目から離せない」
 まるで月が空から舞い降りてきたように、目が眩むほどの輝きをまとって凛と佇んでいた綺羅に、抗いようもなく魅せられた。あの夜からずっと、心が何処かに行ってしまったみたいだ。
 俺の告白に、綺羅は沈痛な面持ちでため息をつく。心底嫌そうに眉間に寄ったシワを指で伸ばして、目を開く。その目には強い拒絶が含まれていて、俺は思わずたじろいだ。
「……一目惚れなんて、そんなのまやかしです」
「え……?」
「きっと勘違いに違いない。時間の無駄ですよ。諦めなさい」
 断定する口調は、はっきりと迷惑だと告げる。俺の気持ちを『勘違い』という一言で括られて、カチンと来る。押さえつけられると、恋というものはさらに燃えるものだと、綺羅は誰かに教わらなかったのだろうか。
 しかも、その否定の言葉を好きな人に言われると、尚更頭に来るものなのかと思った。今すぐ俺の心をコピーして、綺羅の頭に貼り付けてやりたい気分だ。そうすれば、俺がどれだけ綺羅を好いているか分かってくれるだろう。それが出来ないことだと知っているけど、どうにかそうしてやりたかった。
 綺羅の言葉に不機嫌になった俺は、腕を組んだ。その、冷ややかな綺羅の視線に、決して負けたくはなかった。
「……諦めない。そんな風に言われて、諦められるわけないだろ!」
「はぁ……分かりました」
「え、じゃあ」
「勝手に想ってる分には許しますから、今日はもうお帰りなさい」
 シッシッと、まるで犬でも追い払うように綺羅は手を振る。そのもうどうでもいいと言わんばかりのやる気のない声に、拍子抜けする。疲れた様子で肩を落として、振り返らず屋敷に帰る綺羅を、俺は何をするわけでもなく呆然と見送るしかなかった。






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2008.11.25