金木犀(キンモクセイ)の練り香水 第五話




 あれから二ヶ月。俺の住む街にも冬が訪れていた。金木犀の花は落ち、綺羅にはあの夜から一度も会っていない。
 そして、今日。
 見上げた俺の目の前には、無残にも解体作業の始まった綺羅の屋敷があった。
 耳障りな金属の擦れる音、バラバラになっていく木材。関係者以外立ち入り禁止の看板が俺を拒絶するようだった。
「なんで……」
 つい一昨日まで、この屋敷は綺羅がいた頃の様子を呈していたというのに。
 試験で来られなかったたった一日で、こんなにも面影がなくなってしまうなんて、誰が予想しただろう。
 呆然とする俺の耳に、何かが崩れた大きな音が聞こえた。
 そういえば、あの金木犀の木はどうなったのだろう。
 居ても立ってもいられなくなって、立ち入り禁止の看板を無視して、俺は屋敷に飛び込んだ。
 覆い茂っていたはずの草花は、すべて刈り取られたのか見当たらなくて。
 それにはやる心を抑えて、俺は先を急ぐ。
 開けた中庭。いつもの目印。金木犀がなかった。
「おい、坊主! 不法侵入だぞ!」
「……どうして」
 背後から聞こえてきた野太い声に反応できなかった。
 それほどに俺はショックを受けていた。
 綺羅がこの屋敷に現れなくなってから二ヶ月。
 この木と、綺羅が落としていったブランケットを心の支えに、俺は綺羅の帰りをひたすら待っていた。毎日欠かさず、いつもの時間にここを訪れた。
 花が落ちた金木犀を見つめて、ただ綺羅に思い焦がれたこともあったのに。それがもう、できなくなってしまうのだ。
 あまりの絶望に、膝から力が抜ける。
 もう立ってなんか居られなかった。
「おい、坊主。どうかしたか?」
「……あの、ここにあった金木犀の木って」
「あぁ、あの木か? 切っちまったよ」
 その残酷な言葉に、俺は俯く。
 綺羅との最後の繋がりがなくなってしまった。そんな屋敷に、もう用なんてなかった。
「そうですか。分かりました」
「あ、あぁ……ほら、ここは危ないからさっさと帰れ」
「……ありがとうございます」
 工事現場の親父に促され、俺は重い身体を引きずって屋敷を後にする。
 最後に一回だけ振り返った屋敷は、俺を嘲笑うように高らかに音を立てて崩れていく。
 それを見ていたくなくて、逃げるようにそこから去った。



* * *



 とぼとぼと大学への帰り道を歩く。
 講義と講義の合間を縫って、綺羅の屋敷に行ったことを悔いた。
 大学から綺羅の屋敷は大して遠くはないのに、行きと帰りでは感じる距離が違った。
 さっき見た光景が、閉じた目からさえも離れない。
「きゃっ」
「え……あ、すいません!!」
 何かにぶつかった感触に反射的に謝る。
 下を向くと、そこには人の頭があった。
「村上くん」
「え? 佐々木……」
 見下ろすその顔は、二月ほど前に俺を振った佐々木のもので、予想していなかった邂逅に内心慌てる。
 周りをよくみると、そこはもう大学の門の前。振られてからはなるべく裏門を使うようにしてたのに、こんな所で会ってしまうとは。
 若干の気まずさに黙り込む俺に、佐々木は首を傾げた。
「村上くん、何か悩んでるの?」
「……どうして?」
「暗い顔してるよ」
 突然の佐々木の言葉に、ドキリとする。それはその通りで、勘のいい佐々木に内心舌を巻く。
 綺羅に会えなくて確かに落ち込んではいるが、それを誰かに相談したりはしていない。至って元気に振舞っているつもりだった。
 けれど、佐々木が思わず指摘するほど、俺は暗い顔をしているのだろうか。
 俺の驚きに気づいているのかいないのか、佐々木は人のよさそうな笑みを浮かべた。
「……私でよければ、相談のるけど」
「相談?」
「うん、私相手が話しにくいなら無理にとは言わないけど」
 そう言うと、佐々木は俺の返事を聞かないで門から出ていく。
 大学近くのファミレスに行くのだろう。
 とりあえず追いかけた。すぐに横に並ぶと、佐々木は俺をちらりと見てから、ファミレスのドアをくぐった。
 いらっしゃいませーと軽快な調子で言うウェイターに席に案内される。メニューを広げ、カプチーノとアッサムを頼む。
 それでと優しく発された声に、俺は口を開いた。
「俺、好きな人がいて……」
「うん」
「その人に告白したんだけど、拒絶されて」
「うん」
「もう会えなくなった……」
 言ってみれば、それは大したことない。
 ただ告白を断られて、ただ会えなくなった。たったそれだけのことなのに、こんなにも苦しい。
 深刻になるボックス席に、ウェイターが置く食器の音が響く。俺の前に置かれたカプチーノと、佐々木の前に置かれたアッサムを交換する。
 アッサムは綺羅の特に好きな紅茶だった。たった数ヶ月の間に、味覚まで彼女に侵されている事実に何故か悲しくなった。
「どこか遠くに行ってしまったの?」
「違う。ただ、何処にいるかがわからない」
「探す手は?」
「……ない、と思う」
 知っているのは、背格好とあだ名のような『綺羅』という名前。本名さえ、俺は知らない。
 そんな状況で、人探しなんて無理だ。
 頼みの綱のあの屋敷はもう壊され、俺にはすがるものが見当たらなかった。
 唇を噛む。そうでもしないと、みっともなく泣いてしまいそうだった。
「村上くん。その人の傍にいられて楽しかった?」
「……うん」
 佐々木が淋しそうな顔で聞いた言葉に、俺は素直に答える。
 俺は、綺羅の傍にいて楽しかった。いくら邪険に扱われても、いくら来るなと言われても、その顔を見ずにはいられなかった。
 傍にいられるだけで、俺はひどく幸せだった。
 失ってしまってやっと気づく。俺には、綺羅が必要だったのだ。
 綺羅のいない寂しさに襲われて俯く。そんな俺の顔を覗き込んで、佐々木はまた淋しそうに微笑む。
「それなら、諦めちゃダメだよ」
「え……」
「好きなんでしょ? 悩むくらいに大好きなら、諦めちゃダメ」
 そう言った佐々木は、達観したような大人びた笑みをみせる。
 童顔で一見幼い佐々木には、その表情は不釣合いな気がした。
 遠く彼方を見つめた後、佐々木は目を伏せた。
「ねぇ、村上くん。好きな人の傍にいられるのって、それだけで奇跡なんだよ」
「きせき?」
「うん、そう。たくさんの奇跡が重なった結果なんだよ。だからね、手放しちゃダメ。縁が切れてしまうからね」
 好きな人の傍にいられる奇跡。
 改めて考えてみれば、綺羅と出会えたのだって本当に偶然で。傍にいられたのは、たくさんの偶然が重なった結果だったというのに、俺は綺羅の手を放してしまった。会えないことが本当だと知っていたなら、あの時掴んだ手をけして放しはしなかったのに。
 後悔ばかりが募る。
 佐々木は、また遠い目をした。
「放した途端に、どうしても手が届かなくなってしまうからね」
「佐々木?」
「あーあ、村上くんの告白受けとけばよかったなーなんて」
「え……?」
 おどけたように呟いた佐々木に、俺は動揺する。
 そんな俺の様子に、佐々木はクスリと意地の悪い笑みを浮かべた。
「ほら、揺れないの。好きな人いるんでしょう?」
「……あぁ」
「次に手を掴んだら、絶対放しちゃダメだよ?」
「分かってる」
 そう言った俺に、佐々木は満足したのかふうと息をついた。
 そして、すっかり冷めてしまったカプチーノを一口含む。
「村上くんは、今幸せ?」
「……あぁ、幸せだ」
「なら、良かった」
 俺の返答に、自分のことのように笑う佐々木に、綺羅が重なる。
 会いたくてたまらない。
 その少し厳しい笑顔が見たいと思った。






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2009.02.01