金木犀(キンモクセイ)の練り香水 終話




 俺はまた飽きもせずに、ここにやって来る。もう見る影もなく、更地になってしまった屋敷跡に。一縷の望みを賭けて、この恋のすべてをこの場所に託して、また今日もここに来ていた。
 売地の看板の立てられたここは、柵などはなく侵入しやすかった。とはいえ、遮るものが何もないこの土地に侵入していることが近所の人に知れたら、通報されてしまうだろう。
 いられても三十分が限界だった。けれど、どれだけ短い時間しかいられなくても、ここに来ることをやめられなかった。
 もしかしたら、もしかしたら、今日は会えるかもしれない。そんな期待をして来て、毎回裏切られては帰る。毎日、それの繰り返しだった。
「綺羅……」
 呼ぶ声に答えるものはない。
 独りごとを言う自分がひどくむなしかった。
「会いたいよ……綺羅」
 何をしているのか、どこに住んでいるのか、俺は本名すら知らないけど。秘密ばかりで、綺羅の事は全然教えてもらえなかったけど。
 会いたいと思った。会って、話をして、それでいて安心したかった。
 切られた金木犀を思い出す。
 あの金木犀は枝を切られて見るも無残で、家は静かに壊されていたから。
 綺羅があの時言っていたことは本当だったんだと、あとから気づいた。
『もう、会えません』
 その言葉はいくつの意味を秘めていたのだろう。
 会いたくないと思って言ったのだろうか。
 そうでないなら、どうして今、綺羅はここにいないのか。
「綺羅……」
 馬鹿な俺じゃ辿りつけない、たくさんの答えを教えて欲しい。
 厳しく罵りながらも、たまに優しい、あの敬語の声を聞きたい。
 キラキラと光る月のような金髪を。深緑の濡れた瞳を、抱きしめたいと思った。
 ふわりと薫るいつもの匂い。
 季節はずれの金木犀のそれは、俺の鼻に確かに届いた。
「っ――!?」
 振り返ると、二ヶ月前と変わらず佇んでいる綺羅。
 夢でも見ているのかと思った。
「……綺羅?」
「気がつきました?」
「……キンモクセイ。どうして――?」
「これ、うちが作ってる香水なんです」
 ほらと手渡されたケースを呆然と受け取る。ふたを開けると、ふわりとさっき香った金木犀の匂い。
 信じられない思いで綺羅を見つめると、彼女はくすりと愛おしそうに笑った。
「これね、あの人がわたしに残した唯一のものなんですよ」
「これが……?」
「えぇ、この香水。わたしによく似合うからって作ってくれたんです」
 そうやって、『あの人』について語る綺羅は本当に穏やかで。最後の夜の不安定な様子は微塵も見られない。
 それが逆に怖いと思うなんて、俺は綺羅に会わない間にひどく疑心暗鬼になったらしい。
「作るって……」
「うちは、香水会社でしたから」
「会社?」
「えぇ、それ関連の片付けに時間がかかりました。心の整理にも……」
 初めて聞くことの多さに混乱する。
 目を白黒させる俺に、綺羅は呆れたように微笑む。
 それに俺は、うろたえながら呟いた。
「あんた、もう来ないつもりだったんじゃ……」
「来るつもりなどなかった」
 ぴしっと冷たい声で切り捨てた綺羅に萎縮する。
 そんな俺に、綺羅は雰囲気を和らげて言った。
「あなたに会うつもりなんて、これっぽっちも」
「綺羅……」
「ほら、そんな顔しないで」
 情けない顔をしているだろう俺を笑って、綺羅は切なげな笑みを見せる。
 それは、先日の佐々木と重なってみえた。
「だから、言ったではないですか」
「……」
「忘れてくださいって言ったのに……」
 差し出された手が、するりと俺の頬に触れる。
 少し冷たい綺羅の手。
 その感触に涙腺がゆるむのが分かる。
 俺は、いつからこんなに涙もろくなったのだろう。
 それもこれも綺羅がいけない。こんなにも好きにさせておいて、突然逃げ出した綺羅がいけないのだ。
 拒みたいような、嬉しいような、頬に触れる手に居心地が悪い。
 何を言われるか分からないのが怖かった。
 思わず目をそらした俺に、綺羅は小声でごめんなさいと囁いた。
「わたしの方が忘れることが出来なかった」
「え……」
 その言葉に、俺は綺羅を見る。
 はからずも至近距離で見つめあうことになり、知らず鼓動が早まっていく。
 近くで覗いた綺羅の瞳は、ひどく澄んでいて、吸い込まれそうだった。
「気づいたら、ここに来ていました」
「綺羅……?」
「ねぇ、優人さん。わたしのこと、忘れられなかった?」
 からかうように紡がれた言葉に、俺はその身体を抱きしめた。
 首筋に埋めた鼻には、芳烈な金木犀の香。
 再会の涙をたくさん流したら、まず始めに名前を聞こうと思った。






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2009.02.01
2013.04.13 改訂