敬愛のアンジャベル 1




差し出した花束。
それを受け取り、綺羅さまは目を白黒させた。

「……わたしに?」
「えぇ、あなたに」

赤く色付いた美しいカーネーションは、光を反射する綺羅さまの髪によく似合う。
両手で大きな花束を抱く綺羅さまは、そのカーネーションにも負けないほど今日もお綺麗だった。

「数年ぶりの職場復帰でしょう? 祝わなくてどうするんです」
「……ありがとうございます」

私の言葉に少し照れたのか、綺羅さまは薄く頬を染める。
その様子がとても可愛らしくエレガントで、私はこのまま抱きしめたい衝動を堪えるのに必死になる。
そんな私の内心など知らず、綺羅さまはその端整な顔に苦笑を浮かべた。

「でも、久々で勝手が違って……館さんが雇ってくださらなければ、路頭に迷うところでした」
「……不躾な質問ですが、遺産はもう?」
「えぇ、わずかしか残っておりません。あの屋敷を維持するのに相当使いましたから」

それを後悔してないのだろう、語る綺羅さまのお顔はとても晴れ晴れしい。
そんな綺羅さまを見ていると、彼は愛されていたのだと深く思う。

綺羅さまの夫、哲哉は私の腐れ縁という奴だ。
小中高とずっと同じ所に通い、高校で館が仲間になった。
彼らと同じ大学に進学し、同じ会社に入り、機を見て、三人で会社を立てた。

哲哉は社長で、館は副社長。私は二人の秘書を勤めた。
綺羅さまが入社する頃には、社員は20名ほどに増えていた。
この小さな会社だ。綺羅さまが入社したときには大変だった。

金髪碧眼の、あの頃は珍しかった外国人の彼女。
生まれはあちらだが、育ちは日本で国籍も持っている綺羅さまは日本語も達者だった。
そんな綺羅さまを不気味に思ったのか、女子社員たちはこぞって綺羅さまをのけ者にした。

それを助けたのが社長である哲哉だった。
仲間はずれにしていた女子社員を叱咤し、おとなしく抵抗もしなかった綺羅さまにも説教をした。
怒られるとは思ってもいなかったのだろう、綺羅さまは真っ赤な顔で反論したあの日。
哲哉の目が本気になったのが分かった。

腐れ縁でずっと一緒にいるのだ。哲哉の好みなど私も館も手に取るように分かっていた。
哲哉は気の強い美人が大好物だったのだ。

それからの哲哉の怒涛の攻撃は、あの当時を知る誰もが笑い話と共に語る。
暇さえあれば彼女のそばに現れ、冷たくあしらう綺羅さまに諦めず話しかけ続けた。
たくさんの贈り物をしては、彼女につき返され、トイレにこもった哲哉を何度社長室に引っ張っていたことか。

嫌がる彼女を無理やり車に乗せて、そのまま旅行に出たこともあった。
あの日はたしか、社員旅行のはずだったのに、抜け出した二人を探すのに全日程を使ったのだった。

思い出せば、思い出すほど、愛おしく残る日々。
あのまま続けばよかったと思っても、もう二度と戻っては来ない。
哲哉はいない。そして、館が社長になった。

もう結婚して家庭に入っていた綺羅さまは、ひどく悲しみに暮れた。
私たちは心配して何度も家を訪れたが、彼女は大丈夫の一点張りで私たちの前で決して涙を見せなかった。
それが何年も続き、私たちも日々の生活に追われ、彼女を次第に忘れていった。
そんなある日、電話があったのだ。

『あの家を壊そうと思うのですが、協力していただけませんか?』

数年ぶりに会う綺羅さまは、最後に会ったときと違い、元気を取り戻していた。
それに安心すると同時に、疑問にも思ったのだ。
哲哉が両親から受け継いだあの屋敷を、彼を大切に思う綺羅さまがどうして壊すのか。
あれは唯一の遺品だというのに。

『彼がいけなかった未来に、進もうと思うの。哲哉さんの分もわたし、生きようかなって』

そう言った綺羅さまを覚えてる。 そう言ってくれた彼女に出来うる限り協力しようと思った。
そして今、彼女はここにいる。
たくさんの悲しみを乗り越え、私たちのもとに戻ってきてくれたのだ。

「だから、わたしも頑張って働きます。これからまた、よろしくおねがいしますね、堤さん」
「えぇ、綺羅さま。よろしくお願いします」

感謝の意を込めて頭を下げた私に、綺羅さまはひどく呆れた顔をする。
どうしてそんな表情をされるのか分からず首を傾げた私に、綺羅さまはクスクスと苦笑を寄越した。

「あの、堤さん。綺羅さまって呼び方は……」
「そうでしたね。……綺羅さんとお呼びしても?」
「えぇ、もうその名前で定着しているようなものですから」

自分以外の誰かに彼女の本名を呼ばせることを禁じ、『綺羅』という名前を定着させた哲哉。
その独占欲に驚いたこともあったが、今ならその気持ちが分かる。
愛しているから、独占したい。

けれど、私のその願いはずっと叶うことはないだろう。
私は笑う。全てをこの笑顔の裏側に潜めたまま。
大切な二人のために、何もなかったように笑うのだ。

「……哲哉のこと、好きですか?」
「えぇ、大好きです」

私の質問に、綺羅さまは満開の笑顔を咲かす。
それは哲哉がいた頃となんら変わらず、私は綺羅さまを眩しい思いで見つめた。

今でも、二人は愛し合っている。
その事実は悲しくもあり、嬉しくもあった。

だから、気づかなければいいと思う。
お渡ししたカーネーションに私が隠したメッセージ。
それに綺羅さまが気づかなければいい。

『あなたを熱愛します』

そんな言葉をその花束に託したと知ったら、綺羅さまはなんと言うだろうか。
知りたいような、知りたくないような。

けれど、私がそれを綺羅さまに教えることはありえない。
二人の愛を壊したくない。私はずっと傍観者で良いのだ。

そうして、私は、自分の気持ちに蓋をすることにした。






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2009.02.11