敬愛のアンジャベル 2




書類整理の作業の合間。
今日も大変麗しい綺羅さまは、鼻歌でも歌いそうな様子で軽快にステープラーを止める。
その様は、誰から見ても浮かれているように見え、私はクスクスと笑いながら話しかけた。

「何だか、ご機嫌ですね?」
「え……そう見えます?」

私の言葉に綺羅さまは一旦作業を止める。
そして、恥らう乙女のように頬に手を添えた。
その頬は今や薔薇色に染まり、私はそれに感づいて首を傾げた。

「今日、何かあるんですか?」
「えぇ、このあと最近知り合った人と食事に行く予定が入っていて……」

聞いた私に若干のためらいを見せつつ、綺羅さまは頷く。
碧の瞳を猫のように細めて、はにかむ綺羅さまは幸せそうで、私はそれにぽつりと呟いた。

「……男の方ですか?」
「え、あ、それは」

挙動不審に言葉を詰まらせ慌てる綺羅さまは、さっきよりもさらに頬を赤くする。
その可愛らしい様子に、私は苛立ちと共に愛しさを覚えた。
けれども、それを飲み込んで私はにっこりと笑う。

「……綺羅さんも隅に置けない方ですね」
「もう堤さんったら、からかわないでください!」

私のからかうような言葉に綺羅さまは頬を膨らませる。
そうやって綺羅さまが見せる無防備な様子は、私の心にさざ波を立てるのに充分だった。

いつどこで、どうして私の知らない間に綺羅さまが男性と知り合ったのか。
それはどんな方なのか。何をしている方なのか。
綺羅さまは、その方のことを哲哉以上に愛しているのか。

聞きたいことは増える一方で、けれどそれは言葉に出来ない。
口にしたら最後、爆発して、問いつめて。
私は、綺羅さまに何かひどいことをしてしまうかもしれない。

目をつぶって深呼吸をする。
暖房の入った室内独特の乾燥した空気は、私の心を少しだけ冷静にした。

「ねぇ、綺羅さん?」
「はい?」

再開していた作業をまた止めて、綺羅さまは顔を上げる。
ステープラーを握るその華奢な手に、私は手を添えた。

「昔みたいに、名前で呼んでいただけませんか?」
「え……」

私のお願いに、綺羅さまは戸惑った表情を見せる。
それもそうだろう。私を名前で呼んでいた頃はもう5年以上昔のことだ。
そんな昔のことをぶり返されて、名前で呼んでくれだなんて唐突すぎるだろう。

でも、私は綺羅さまに名前で呼んでもらいたかった。
この秘めたる思いは口に出来ないとしても、名前で呼んでもらえたら、私はそれだけで幸せだ。

まだ手に触れ続ける私に、綺羅さまは困ったように眉を寄せる。
困らせていることを理解していても、私はそれを離すことが出来ない。
綺羅さまの表情をこれ以上見ていられなくて、私は深く俯く。

「堤さん……?」
「一度だけでいいので、お願いします」

言い募る私の手に、綺羅さまは触れている反対の手を静かに重ねた。
予想外の動作に反射的に顔を上げた私に、綺羅さまはにこりと笑う。

「……一度だけでと言わず何度でも」
「綺羅さん?」
「和宏さんが我侭を言ってくださって嬉しいです」
「……」

その言葉通りに綺羅さまは嬉しげに笑う。
可愛らしいその笑顔は不意うちで、私の鼓動をいつもよりずっと早くする。

「それぐらいでしたら、いくらでもおっしゃってくださいな」
「綺羅さん……」
「わたしと和宏さんの仲なら、そんな遠慮もいらないでしょう?」
「……はい」

楽しそうに首を傾げる綺羅さまに、私は複雑な気持ちで頷いた。

綺羅さまが私に向ける思いは、きっと愛情なんかじゃなくて。
私のことを、親友のように、兄のように慕ってくれているだけだ。
それなのに時々、好かれていると勘違いしたくなるような言葉をくれるからたちが悪い。

関係を壊すことを覚悟して、今この場で抱きしめてしまいたかった。
けれど、私は綺羅さまの傍にずっといたい。
この安全なポジションのまま、いつまでも傍にいたいから、この気持ちに名前は付けない。

例え、これが恋であったとしても、私はそれを彼女に告げる気はないのだ。
これから先、意地でも、それだけは綺羅さまには伝えない。

いまだ触れる手をさりげなく遠ざけ、私は息をつく。
愛してない。私は彼女を愛していない。
そう繰り返さないと、思いが溢れだして私を突き破ってしまいそうだった。






NEXT  TOP




2009.03.03