Squeeze her hand
近くのバーで一杯飲んだ、デートの帰り道。
隣を歩く彼女の手を、すっかり冷たくなった自分のそれでさらう。
酒を飲んだあとだからか、じんわりと温かい彼女の指に自分の指を絡めた。

「……私、手繋ぐの嫌いなんだけど」
「どうして?」

初めて聞くそれに、俺は繋いでいた手を離す。
途端、距離のできる二人に、居心地の悪い沈黙が落ちた。

「……だって、いつかは離さなくちゃいけないでしょ?」
「……」
「だからね、セックスするのも本当は嫌いなのよ」

そう言って、淋しそうに利香は笑う。
聞かされるセックスの話も初耳で、今までそんな素振りを見せなかった利香だけに俺は驚いた。

「……それはどうして?」
「そうね……ひとつになっていられるのって、ほんの短時間でしょう。だから、また別々になって余計淋しくなるの。だから、嫌い」

淋しいから嫌いだと言った利香は歩くスピードをゆっくりと上げる。
表情の見えなくなったその背中は、他の身体のどこよりも雄弁だった。

利香の言う通り、一緒にいられる時間というのはいつだって短時間だ。
別々になって余計淋しくなるというのもよく分かる。
だから、終わった後、いつも淋しそうに俺に抱きついてくるのだという事もやっと分かった。

これだけ長い時間一緒にいて、いま俺は利香がひどく淋しがり屋だと知ったのだ。
隠すのが上手い利香のせいもあるだろうが、どうして俺は気づかなかったのか。
もしかしたら、これまでも沢山淋しがらせていたのかもしれない。

言葉の足りない俺だから、きっとこれからも淋しい思いをさせるだろう。
だからせめて今だけは飾らない言葉で、俺の気持ちを伝えようと思った。

「俺はさ、俺たちが別々の人間でよかったと思うよ」

しゃきしゃきと歩くその背中に声をかける。
スピードを緩めて、振り返った利香は訝しげに俺を見上げていた。

「別々だからこそ愛し合える。こんなにもお前を愛おしく思える」
「……」
「それが嬉しいから、俺はお前が俺とは違う人間として生まれてきたことに感謝するよ」

俺のストレートな言葉に、利香は目をそらす。
その仕草は照れているときの合図だ。
あぁやっぱり、こんなにも利香が愛おしい。

「……馬鹿ね」
「あぁ、何とでも言え」

差し出された手。近づいて絡めあうと、ほころんだ利香の顔。
道は真冬で寒いというのに、俺の心はほっこりと満たされていた。

(09.03.31)




Treacle
「君、優しくされるの嫌いだろう?」

午後の穏やかなティータイム。
静寂と優しさに包まれた幸福の時間をぶち壊すように、その男は聞いた。
それに、平然を装ってあたしは答える。

「……そうだと言ったら、どうするの?」
「……そうだなー。どうしようか?」

質問に質問で返され、あたしは不機嫌にティーカップを置いた。
テーブルにぶつかるガチャンという音が、耳に不快に残る。

「ねぇ、どうされたい?」
「……構うな」
「却下。でもね、答えは決まってるんだよ」

クスクスと何が面白いのか、男は軽快な笑い声を立てる。
それを訝しがって首を傾げたあたしのカップに、角砂糖を何個も入れる。
最低でも3個は入っているように見える紅茶はひどく甘そうだ。

「僕は、君をドロドロに甘やかして、優しくしてあげるつもりだ」
「……性悪」
「何とでもいえばいい」

自分勝手にニコニコ笑う男は、その悪戯をしたティーカップをあたしの元に返した。
カップの中の紅茶は、角砂糖が大量に入っているせいか、全く底が見えない。
それはまるであたしの未来のようで、見ていると不安になる。
ふぅと、無意識に出たため息に、男はまた可笑しそうに笑った。

「僕以外で満足できないようにしてあげるよ」
「……」
「その方が、君も、僕のせいに出来て楽だろう?」

あたしの心情を見透かしたような発言にカチンと来る。
けれど、それはその通りで、あたしは男のせいにしようとしていたのだ。
この人があたしを逃がさないから、あたしは帰れないって、そうやって自分に言い訳をするつもりだった。
それを簡単に見破られて、情けなさに何だか泣きたくなる。

「……あんたなんて嫌い」
「そりゃどうも」

口では反抗するあたしの体を、男は壊れ物に触るように優しく抱きしめる。
それに逆らえず胸に収まるしかないあたしに、自分自身腹が立つ。
もうとっくに、他の誰かじゃ満足できなくなっていた。

(09.01.17)
○2万HIT感謝作品




cry
『さようなら』

別れを紡ぐ残酷な声が、今も鼓膜に張り付いて離れない。
いつもは優しかったそれが、その時はひどく冷たくて、深く絶望したのを覚えてる。
確かに君は笑っていたはずなのに、それを見たわたしはどうしようもなく泣きたくなった。

「行かないで……待ってよ!!」

叫んで、泣きじゃくって、誰も助けてくれなくて、惨めで。
それでも君は帰ってこない。
優しく慰めてくれた手も、抱きしめてくれた温かい胸ももうない。

君の心が離れていっただなんて認めたくなくて、喉の痛みを無視して泣き叫んだ。
そうすれば、自分の声にかき消されて、愛おしい君の声さえ何にも聞こえない。
別れを告げる君の声を聞かなくて済む。

「戻ってきてっーーー!」

泣けば、いつか戻ってきてくれるかもしれないと期待していた。
でも、わたしはそれが叶わない夢だと知っている。
だからこんなにも悲しくて、こんなにも切ないのだ。

「やだぁっ、ゴホッゴホッ……ヤダよぉ……」

ただでさえぼやけていた視界が白む。
叫びすぎた喉がヒリヒリと痛んで、上手く息が吸えない。
へたり込んだ身体から、すーっと力が抜ける。

「置いていかないで……」

意識が途切れる最後の瞬間、支えられた腕のぬくもりにまた涙が出た。

(08.07.12)




Don't call me!
「はぁっ、はぁっ」

逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃっ!

捕まったら最後、絶対に逃げられない。
どこまでも走って、ここから逃げ出さなきゃ。
私もあの人も堕落してしまう。

出口から近い曲がり角から光が差し込んでるのが分かる。
あの角を曲がれば、終着点。自然と心が踊る。

「あと、もう少しっ……」

角を曲がったと思ったら、硬いけど柔らかいものにぶつかった。
走っていた勢いを殺せず、反動で後ろに倒れそうになった私を何かが引っ張った。
そのままそれに倒れこんだ私を、優しく強く拘束する腕。
そして、顔を上げると満面の笑みに会う。

「捕まーえた。ふふ、遅いよ」
「あ……」
「ねぇ、どうして逃げたの?」

どうしてあなたがここにいるの?
後ろから追いかけていたはずなのに、いつの間に追い越して、待ち伏せていたの?

「ほら、答えてよ、――」

そんな穏やかな笑顔で問われたら、名前を呼ばれてしまったら、もう逃げようなんて思えない。
首元に何度も落ちる口付けが私の思考を鈍らせていく。
力が抜けた身体を優しく抱き上げられて、元いた場所へと連れて行かれる。

「怒ってないから、言って? ――」

ここに希望なんてなくても、あなたが名前を呼んでくれるなら。
私はこの暗闇の中。

(07.09.02)




Broken The World
「また見てるんですか?」

私を後ろから包み込むように、優しく抱きしめる腕。
安心する。それと同時に不安になる心。

「そんなにその世界を壊したいのですか……」
「そうよ。壊したい。跡形もなく粉々に」

そうしたら、この苛々する気持ちも粉々に砕けて、どこかに行ってしまうかも知れない。
でも――

「貴方は壊したくないんでしょ」
「はい、その通りです」

貴方が壊したくないって言うから、私は壊せない。
その意思を確認するたびに心に漣が起きる。
そして、それがいつの間にか焦燥に変わるのだ。

壊したい。壊したい。壊れてしまえばいい。

貴方がこれを大切に思っていて。
私がこれを守る者じゃなかったら、今すぐにでも壊してやるのに。

でも、嫌われたくないから。
貴方の大切なものを壊さない。

「壊さないわよ。だって、貴方の大切なものなんでしょ?」
「えぇ、私のために壊さないでくださいね」
「貴方がそう言うなら……」

ほら、また水面に波紋が――

(07.08.26)




missing everything
本当に大切なもの以外、全て捨てられたらいいのにね。
いつか君が言った言葉。
そして、僕はそれを叶えた。

「今日のご飯、何がいいですか?」
「……そうだな〜、君の好きなもので」
「もー、いつもそれじゃないですかっ。たまには希望を言ってくださいって」

頬を膨らませてすねる君を見ていると、いたたまれなくなる。
どうしようもない程の罪悪感に襲われて、鈍く胸が痛んだ。
台所に立つ君の背中に、過去を思う。

「僕も……僕も全て忘れられたら、幸せになれたのか……」

忘却は甘い夢。
分かっていても願わずにはいられない。
全てを忘れてしまった君は、もうどこにも行けない。
他でもない僕のせいで。

「どうかしましたか?」
「いいや、なんでもないよ」

ぎこちなく微笑む僕に、優しく笑い返してくれる君が嬉しくて、もう手放せそうにない。
罪悪感に苛まれて死ねたらいいのに。君がその手で殺してくれたらいいのに。
そうは思っても、この幸福から逃げ出すことも抜け出すことも出来ない。
毎日のように胸は痛む。

あぁ、それでも僕は今、とても幸せなんだ。

(07.09.19)




Lover in heart
いつだって、今だって、私はあなたが大好きで。
もう何年も経ったのに、思い出が色褪せることはない。

目を閉じて、最初に思い浮かぶのは最後に見たあなたの笑顔。
悔しいほどに満開で、もどかしいほどに私を縛り付けた。

きっと私がヨボヨボのお婆ちゃんになっても、それは変わらず。
心の住人はただ一人。

「おーい、写真撮るってよ!」

振り返れば、私を呼ぶ、眩しい光。
見上げた空は、哀しいほどに蒼く。
私は全てを胸に仕舞い込んで、一歩を踏み出す。

「はーい、今行く!」

あなたのいないこの世界で、私は今日も生きているから――

(07.07.30)




crazy lover
どうして、どうしてこの世界はこんなに厳しい……。
そして、何故こんなにも哀しいのだろう。

「なら見なくていいよ」

壊れ物に触るように柔らかく、しかし少し早く視界が覆われてしまう。
手のひらの隙間から差し込む光が嫌で、私はその手を自分のそれで握った。
これで、光は見えない。

「外の世界は君にとって、そんなにも眩しいものなのかな?」

そう眩しすぎて、憧れすぎて狂いそうだから、目を逸らしたい。
どうせいくら憧れても、私はここから逃げられないのだ。

「そうか。それなら、君はここにいるといい」

砂糖菓子のような甘ったるい声が耳元で響く。
この怖くもあり、心地よくもある声に、また甘えてしまうのだ。
優しく包み込むように私の罪を許すから、ここに囚われてしまった。

「命が尽きる最期の時まで、ずっとここに居て、君は僕を愛すんだ」

これが今に壊れたっておかしくない関係だって分かってる。
でも、狂気のような甘い愛にもう何も考えられない。

(07.07.15)