秋の菖蒲(あやめ) 銀座編<3>




遠くで空がゴロゴロと鳴いている。
手袋をしている両手も冷たくて、少しでも温めようと強く擦り合わせる。

今夜は雨だった。
傘を差していても、左半身は濡れ鼠。
ただでさえ寒い冬。早く暖を取りたかった。

いつもの住宅街。
曲がり角で右に、二つ目の路地をまた右に行けば、菖蒲のアパートの前を通る。
通りすがった窓は真っ暗で、電気はついていない。
もしかしたらバイトなのかもしれない。

びしょびしょの革靴で自分家の前につく。
靴下まで浸水して気持ち悪かった。
どうしても軋む階段を上り、傘を閉じる。
うちのドアの前、見慣れた制服に一瞬思考が止まる。

「秋斗?」
「……どうして」

ドアの前に座りこんだ菖蒲は、体育座りのまま呆然と俺を見上げた。
その様子に我に返って、菖蒲の右腕を掴んで立たせた。
長袖のセーラー服、氷のように冷たかった。

「いつから?」
「……夕方」
「っ」

慌てて手袋をはずし、鍵を手に取った。
かじかむ右手、鍵穴に中々はまらない。

「何で外で待ってた」
「……家の中からじゃ帰ってきたの分からないから」

どうにか鍵を開けて、ドアを開く。
目線で促すと、菖蒲は躊躇ったようだった。

「早く」
「でも」
「そんなに冷えて、温かい飲み物でも出すよ」

肩を抱いて、無理やり家の中に押し込む。
革靴とびちゃびちゃの靴下を脱いで、そのまま洗面所に向かう。
開きっぱなしの洗濯機に濡れた靴下を放り込んだ。
代わりにドライヤーを手にとって、まだ玄関に突っ立てる菖蒲に声をかけた。

「和室で制服乾かそう。染みになる」
「……うん」

靴を脱ぐ菖蒲のカバンを奪い、和室に足をむける。
中央のちゃぶ台、ドライヤーを置いた。
押入れの奥、少し探せばジャージの一式が出てくる。

「制服乾かす間これ着てて」
「……ありがと」
「ハンガーはここ。俺はお湯沸かすから」

タオルと着替えを渡して、和室の戸を閉めた。
かすかな衣擦れ。
意識を引き剥がし、やかんに水をはって火にかけた。

「はぁーー」

何だってあんなところにいたんだ。
いや理由は察しがつくけど、何も今日じゃなくてもいいだろう。
こんな冷たい雨の降る日に風をしのげない俺のアパートの前で待ってるとか自殺行為だ。

それにこんな夜遅く、女の子を連れ込むなんて俺は馬鹿野郎だ。
放っておけなかったとはいえ、他に方法はなかったのか。
よこしまな心はないけれど、彼女の母親に申し開きできない。
良心が痛む。こんなことなら知り合いにならなきゃ良かった。

「秋斗?」
「うわっ」

背後からかかった声に俺は盛大に驚いた。
振り返ると俺の様子にびっくりしたのか、頭にタオルを乗せた菖蒲が目を白黒させていた。
渡した着替え、俺の高校時代のジャージを着ている菖蒲に、これはなんかの罠なんじゃないかと思えてきた。

「……お茶入れるから座って待ってて」
「……はい」

自分から出た声が、異常にそっけなかった。
明るい声でとりなそうとしたけれど、菖蒲はすぐしおらしく背を向けた。
いつもと感じの違う彼女に、こっちも調子が狂う。

ピーと音をだすやかん。
急須に適当に茶葉をぶち込み、沸いたお湯を注いだ。
来客用の湯のみと自分のマグカップ、急須を盆に乗せ和室の戸を引いた。
入ってきた俺にびくりと動揺した様子を見せる菖蒲。足元は正座だった。

「足崩せばいいのに」
「……」

マグカップと湯のみを並べ、急須をちゃぶ台に置く。
まだスーツを着たままだったのに気づいて、壁にかけてあるハンガーを手に取った。
ネクタイを緩めながら、菖蒲の正面に座った。

「男の一人暮らしなもので汚くてごめんね」
「……綺麗だと思うけど」
「なら、よかった」

十分に蒸らしたお茶を湯飲みとマグカップに注いでゆく。
温かい飲み物をと思ったが、こんな時間だ。
もしかしたらお腹がすいてるかもしれない。
カップスープくらいストックしてなかったか。

「飲み物だけでいい? スープくらいならすぐ用意するけど」
「うん、大丈夫」

菖蒲の前に湯飲みをずらすと、菖蒲はそれを手に取った。
すごい熱いはずだが、長時間外にいたのだ。
感覚がマヒしているのかもしれない。

「手大丈夫?」
「あったかくてちょうどいい」

彼女がそういうのなら止めはしない。
立ち上がり、制服がかかったハンガーを窓枠にかけた。
ちゃぶ台の上のドライヤーを持ち上げ、コンセントにさした。

「それぐらい私が」
「いいよ、座ってて」

スイッチをいれて温風を当てる。
濡れた制服、できてしまった皺をひとつひとつ伸ばしていく。
アイロンを出してきてもいいけど、もう少し乾いてからがいい。

俺の作業を、菖蒲は湯のみに息を吹きかけながら見ていた。
どうやら猫舌のようだった。

「まめまめしいのね」
「……こういうの嫌い?」
「ううん、あんたらしいと思う」

横目でうかがうと、ちょっと口をつけて、すぐに戻していた。
まだ熱いらしいが、冷めないうちに飲まないと意味がない。

「氷いれる?」
「大丈夫」

俺も飲もうとマグカップを傾けると、そんなに熱くはなかった。
やっぱり彼女は猫舌らしい。
性格だけじゃなく、口内まで猫っぽいのかとおもった。

セーラー服のタイに温風を当てる。
湿っていたそれがじわじわと乾いて本来の形を取り戻していく。
すこし乱れたタイを直すと同時の振動。
背中に菖蒲がしがみついていた。

「菖蒲ちゃん?」
「……叩いてごめんなさい」

搾り出すようにうめいた声は、俺の体を通して伝わる。
遠慮しているのか、完全に抱きついてこない菖蒲。
雨音がひどく遠い。

「ずっとモヤモヤしてて」
「うん」
「……嫌いじゃない」
「うん」
「怒ってない?」
「うん」

濡れた髪の毛がシャツに触れて少し冷たい。
肩越しに振り返ると、うつむいたつむじが見えた。
そこを撫でてあげたかったけど、今のこの体勢では無理だった。

「怒らないよ。わざと殴られるように仕向けたんだから」
「でも、痕残らなくてよかった」

顔を上げ、叩かれた方の頬に触れた。
表情を和らげる菖蒲に、俺は息が詰まる。

いつもこういう顔をしていたらいいのに。
すごく綺麗だ。

「ねぇ、菖蒲ちゃん」
「ん、何?」

俺の頬を撫でた手をさらう。
仲直りできたからか安心した表情の菖蒲に俺はにこりと笑った。

「嫉妬したんだろ?」
「……それ、言わすの?」
「もちろん」

それが聞きたくて殴られてあげたのだ。
簡単に諦めたりしない。

体を反転して手をしっかりと掴む。
学習しない菖蒲はどうにか逃げようと暴れるが、それを押さえ込むように胸に抱きこんだ。
はらりとこぼれる髪から、シャンプーの匂い。

「離せ、馬鹿っ」
「こないだはそれで逃げられたからな」

ああでもしないと認めないと思ってた。
泣かせてしまったのは不本意だけど、それで望みのものが手に入るなら万々歳だ。

後頭部に手を添えて、顔をそむけないように固定する。
こんな状態でも眉間にしわを寄せて俺を睨む菖蒲。
ひるまないところもかわいかった。

「あんたっ、強引だから嫌いっ」
「……でも、そんなところも好き、だろ?」
「自意識過剰……」

強がる菖蒲の唇が震える。
ためらうように何度か開かれたあと、菖蒲は視線を逸らす。

「好き、じゃない」
「……素直じゃないよな」
「うるさい」

ひねくれた返答に俺は、また菖蒲を抱き寄せる。
可愛くて、いとおしくて、いつまでもこうしていたかった。

けれど、もう制服も乾いてしまった。
そろそろ家に帰さなくちゃいけないだろう。
でも、まだ抱きしめていたかった。

「ねえ」
「……もうちょっと」

雨がやむまでとは言わないから。
もう少しだけ俺の腕におさまっていてほしかった。

シャツの背中、おずおずと菖蒲の腕が回る。

「ちょっとね」
「……ああ」

俺の希望に寄り添ってくれた菖蒲の気持ち。
嬉しくて当分離せないと思った。







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2012.10.13