秋の菖蒲(あやめ) 自宅編<2>




あれから、菖蒲には会っていない。
避けられているのか、それともただ単に忙しいだけなのかは分からないが、一度も会っていなかった。

だからといって、実際に恋人でも何でもない俺が家に行くのはどうかと思う。
俺にだって、人並みの常識はある、多分。
第一、日々バイトに明け暮れている菖蒲が、こんな時間に家にいるわけがない。

そんなことをつらつらと思いながら、菖蒲のアパートの前を横切る。
そこには、この前会ったときと雰囲気の違う菖蒲の母親がいた。

「あら、萩原さん?」
「菖蒲さんのお母さん?」

デコルテを強調したピンクの衣装に、どぎつい化粧。
幸の薄そうな第一印象を吹き飛ばすその様子は、これから出勤するホステスのようだった。

「ちょうどよかった。困ってたの」
「……え、あーはい。何でしょう?」

状況についていけない俺に、前と同じように話しかける母親に我にかえった。
売れる恩は売っておく主義の俺は瞬時に切り替え、営業スマイルで作る。

「菖蒲がね、熱を出してしまって……」
「……あぁ、だから最近会えなかったんですね」
「私が移してしまったみたいで、学校もバイトもお休みさせてるの」
「……具合は大丈夫なんですか?」

母親の話で俺を避けていたわけでないことが分かって、ひとまず安心した。
その次に、菖蒲の体が心配になる。
菖蒲はいつも元気で乱暴で口が悪くて、風邪とは無縁そうに見える。
正直、彼女のような子でも風邪をひくのかと思った。

「えぇ、薬は飲ませたし、氷枕は用意したから大丈夫だと思うのだけど」
「……それで困ったことっていうのは?」
「私これから仕事なのよ」
「……あぁ、もしかして夜の?」

濃い口紅を塗った唇で艶やかに微笑む母親に、ピンと来る。
ホステスのようだではなく、本物のホステスだったのか。

「そう。これでもホステスで、今から仕事なの」
「……そうだったんですか」
「まぁ、ちっちゃなスナックなんだけどね」

夜の仕事をしなければいけないほど、家計が切迫しているのだろうか。
菖蒲には父親がいないのだろうか。

聞きたいことはたくさんあったけれど、いまここで聞くのは菖蒲に対してフェアじゃない気がした。
彼女が話したくなったら、いつか話してくれるだろう。
そのときが来たら、静かに菖蒲の話を聞けばいい。
俺は大人だ。それぐらい待てる。

そんなことより、母親がいない夜にひとりで寝込んでいる菖蒲のほうが気になって仕方ない。
風邪のときはいつもより心細くなるものだ。

淋しくなっていないだろうか。泣いていたりしないだろうか。
意地っ張りで弱音を吐かない菖蒲だから、心配でたまらなかった。
俺の様子に気づいたからか、母親は少し嬉しそうに笑う。

「それで、仕事が終わるまで、萩原さんに菖蒲を見ててほしいの。お願いできるかしら?」
「俺はいいですけど……」
「大丈夫。信用してるわ。だって、菖蒲が選んだ人ですもの」

俺の懸念ににっこりと笑ってそう告げる母親に目をしばたく。
信用されているのはありがたいが、そんな簡単に人を信じていいのだろうか。

「これ、うちの鍵。菖蒲をお願いしますね」
「……はい」

手をとられ乗せられた鍵を呆然と見る。
預けられたそれに信頼も上乗せされているようで、少しだけ重かった。







NEXT  TOP




2010.10.02