秋の菖蒲(あやめ) 自宅編<3>




熱い吐息を漏らす菖蒲が眠る布団の傍に腰を下ろす。
この家に上がってからもう3時間が経つ。
その間、菖蒲は薬が効いているせいか、身じろぎもせずに眠っていた。

初めて見る菖蒲の寝顔は、やはりとてもきれいで人形のようだった。
化粧などしなくても長いまつげに熱のせいで上気した頬。
赤くぷっくりとした唇は薄く開いていて、まるで俺を誘っているようだ。

「……拷問かよ」

自分で引き受けたこととはいえ、この状況は辛かった。
可愛い菖蒲にキスがしたくてたまらない。
見れば見るほど愛おしさが募る。

悪戯心がむくむくと沸いてくる。
少しぐらい悪戯してもばれないだろう。

寝る菖蒲に音を立てず覆いかぶさる。
顔に影が落ちたせいか、はたまた不穏な雰囲気を感じ取ったのか、菖蒲の目がゆっくり開いた。

「母さん……?」
「あ、菖蒲ちゃん。ごめん起こした?」

瞬時に元の体制に戻った俺は、何食わぬ顔で菖蒲に微笑む。
襲い掛かってたと知れたら元気になったときが恐ろしい。

状況が分からないのか、ぼーっと俺を見ていた菖蒲の顔が突然引きつる。
慌てたように、布団を顔まで被る。
あぁ、そんなところも可愛いなと思った俺に、菖蒲は疲れたように呟いた。

「……どうしてあんたがいるのよ」
「お母さんがね、心配だから見ててほしいって」
「……だからってなんであんたが」

布団から目だけ出した菖蒲にふと気づく。
さっき慌てたのは、化粧をしていない顔を見られたからか。
気づいて嬉しくなる。そんな菖蒲がますます好きになりそうだ。

けれど、それは指摘しなかった。
言ってしまったらきっと菖蒲はへそを曲げてしまうだろう。
それが分かる程度には、俺と菖蒲の付き合いも長くなっていた。

「菖蒲ちゃんのお母さん、いい人だね」
「……そうよ。だから、大変」

気を利かせて話題転換をした俺に、菖蒲はホッとしたように話題を合わせる。
言っていることがこれだけ分かるのだから、菖蒲はもう大丈夫だ。
ぶり返さなければ、風邪はほどなく回復するだろう。
それに俺も安心した。

「何が?」
「お人よしなのよ」
「……あぁ、確かに」
「しょっちゅう人に騙されるし、お金は貸すし、あげく旦那にも逃げられて」
「……そっか」

思いがけず聞けた知りたかったことに、俺はかけるべき言葉を持たない。
順風満帆に適当な人生を送ってきた俺は、菖蒲の苦労を本当の意味で理解してあげられない。

それに菖蒲は同情してほしいわけじゃなさそうだった。
彼女は彼女なりに一生懸命生きていて、苦労をしているように傍目には見えなくて。
きっとそれでいいと思っている。

何よりその表情が心の底から嫌がっているようには見えないのだ。
愚痴のように聞こえる言葉の端々に愛情がこもっていて、目は優しく細められている。
周りから見ればどうしようもない母親でも、菖蒲は好きなのだろう。

寝ている菖蒲の頭を撫でる。
いぶかしげな菖蒲に俺は微笑んだ。

「でも、菖蒲ちゃんは好きなんだね」
「……うん、好き。心配ばっかりかけられるけど放っておけないの」

今までにない素直な菖蒲に、俺は苦笑する。
俺にもそれぐらい素直だったらいいのになと願ってもかなわないことを思った。

コホコホと苦しそうに咳をする菖蒲に、立ち上がりこたつの上のコップを手に取った。

「何か飲む?」
「……お水」

持ち手のついたコップに少なめにミネラルウォーターをいれる。
布団から起き上がった菖蒲の手にコップをしっかりと握らせた。

「はい、ゆっくりね」
「うん」

両手でコップを握った菖蒲は俺の言うとおりにゆっくり水を飲む。
すっぴんで寝起きなのは、気にしないことにしたらしい。
赤いチェックのパジャマを着た菖蒲は小さな子供みたいだった。

「ありがとう」
「……他にほしいものは?」

飲み終えたコップを無愛想に突き出される。
普段の調子が戻りつつある菖蒲に、俺は笑いながらコップを受け取った。
空のそれを洗おうと立ち上がる。

「ちょっと洗い物してく……」
「秋斗」
「え?」

幻聴のようなそれにキッチンに向けていた足を止める。
振り返る俺に手を伸ばし、菖蒲は服の端を捕まえようとする。
それに俺は身動きが取れない。

「……傍にいて」
「え?」
「私が眠るまで傍にいなさい」

馬鹿みたいに聞き返す俺に、菖蒲はいつも通り少し冷たく高飛車に命令する。
その意外すぎる言葉と、微笑んでいる顔のギャップに俺はその場に座り込んだ。

「っ〜〜、その表情反則っ!!」
「……?」

顔を覆ってあたふたしている俺の行動が理解できないのか、菖蒲はきょとん顔。
余裕そうな顔が悔しくて、菖蒲が伸ばしていた手を強く掴む。

「風邪引いてるときの女の子って凶器なんだからね」
「凶器?」
「そう、凶器。超絶可愛くてやばいんだから、俺以外の男の前でそんな顔しないこと!!」

力説する俺に、菖蒲はまだいまいちわからないのか、首を傾げる。
その仕草のひとつとっても、今の俺には破壊力抜群で。
俺は菖蒲が病人なことを一瞬忘れた。

「あー、もう菖蒲ちゃんの分からず屋っ!」
「え? なっ」

トンと軽く押すだけで後ろに倒れる体を庇いながら、菖蒲に覆いかぶさる。
ようやく状況を理解したのか、焦りを見せる菖蒲の頬に、俺は自分の頬を寄せた。

「ちょっ……あんた」
「男に、俺に気をつけて。じゃないと、簡単に食べられちゃうよ」

顔を離して覗き込んだ瞳は、相変わらずぬばたまの黒。
きれいすぎるそれに至近距離で向き合う。
頬に手を当て見つめあっているだけなのに、心臓がひどくうるさい。

「……熱が上がるわ」
「いいよ、上がっても。俺が看病するから」
「……結構よ」

菖蒲の言葉に覆いかぶさる体を静かにどけた。
俺がいなくなってすぐに菖蒲は体ごと背を向ける。
もしかしたら、嫌われてしまったかもしれない。

「……寝る。おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい。菖蒲ちゃん」

そういって黙ってしまった菖蒲に、俺は今度こそキッチンに向かう。
何もしていないが、信用して任せてくれた彼女の母親を裏切った気がして、俺は菖蒲に聞こえぬようため息をついた。







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*あとがき*<要反転>
牛歩ではありますが少しだけ進展しましたな。
菖蒲が素直になってくれて、著者としては嬉しい限り。
少し気まずくなってしまった二人ですが、さてこれからどうなるやらです。
次はもう少し進歩できるといいなーなんて。
今回も書いていて楽しかったです。ではでは。
<5周年ありがとうございます!>

2010.10.02