01.月
「何かさ、恋人いるみたいだった」
「……」
「笑顔で……拒絶された。あんなの初めて」

夜の公園。
ポツリと建つ外灯の傍、ブランコに座って二人、月を見上げていた。
空に浮かぶ天体。黄色く光るそれは、手を伸ばしてもなお届かない。

「……望みのない恋なんて、したくなかったな……」

全てを諦めたように呟いた君は、どこまでも遠い月を見ていた。
その男に、あれを重ねているのかもしれない。

「お前、泣かないのな……」
「……そう、だね」

涙ひとつくらい浮かびそうなシチュエーションなのに、君は泣かない。
頑なに、涙も、淋しそうな顔すらせずに笑う。

君が、月が欲しいと泣き叫ぶ子供のようになれたらよかったのに。
そうしたら、少しはこの世界も、君にとって生きやすくなるのだろう。
けれど、君は笑う。
生きにくいこの世の中で、ただ一人を思って、笑うのだ。

静寂がおちる。
お互いに相手を見ずに、空に残像を重ねた。
君は彼を。俺は君を。ひとり想って、あの弦月を眺めた。

「泣けば誰かが助けてくれるなんて、夢だって知ってるから……」

そう言う横顔は凛と佇むすずらんに似て。
壊れた硝子みたいに儚いのに、美しいと思った。

思わず手を伸ばす。
確かに触れた感触に、俺の方が泣きたくなる。
視線を俺に移して、君は首を傾げた。
それに勇気付けられ、俺はすがり付く。

「……泣きなよ」
「泣かない。私は泣けないの」
「……助けてくれる人が現れても?」
「……えぇ、もちろんよ」

その微笑みが痛い。
どれだけの痛みを抱えているのだろう。
どれだけの辛さに晒されているのだろう。
俺の貧弱な想像力じゃ、分かることすら出来ない。

力無い自分が不甲斐ない。俺なんかじゃ助けにならない。
そうなのかもしれないけど、俺は君の役に立ちたかった。

「俺じゃダメかな?」
「……」

好きになってくれなくていいから。
1番じゃなくってもいいから、俺に頼って欲しい。

一人で泣けないくらいなら、どうか俺と一緒に泣いてほしいのだ。
それで君が過ごしやすくなるなら、俺は喜んで何だってするだろう。
例え君は他の誰かを想っていたとしても。

肩に置いた手に力を込める。
それを一瞥した君と、また視線を交わす。

「一人で泣くくらいなら、頼ってくれればいい」
「……ダメ」

頼れと言う俺に君は表情を消す。
目を伏せた笑みのないその顔は、作り笑いをされるより君らしい。
明らかに無理をしている君を、これ以上見ていられなかった。
そう思った俺の気持ちを無視して、まだ頼らないと言い張る君に声を荒げた。

「どうしてっ!?」
「だって、隼は私のじゃないもの」

ぼそりと呟き、君は俺を射抜くように見る。
その視線に気圧され、俺は黙る。
同時に拒絶された手は、行き場をなくしてだらりと垂れた。

睨むように一度も外れない強い眼光。
満月の光に似ていると思った。

「一度手に入れたら、手放したくないから……」
「……」
「隼じゃ駄目だわ」

鋭い瞳を和らげ君は苦笑する。
その笑いは、今にも壊れそうに見えた。

脆い心を持った、俺の大好きな人。
空に浮かぶ月以上に、手が届かない。

君は飽きもせずに、また空を見上げる。
それに、思わず伸ばしかけた手を、俺は固く握り締めた。

(08.09.19)




02.お金
「えへへ」
「……」

通帳の預金残高を見て、気色悪いほどに満面の笑みを浮かべる。
そんな彼女を俺は呆れ半分、頭痛半分で見ていた。

「幸せだなぁーー、ふふふっ」
「……」
「幸せー、お金ー」

目標預金額を超えた嬉しさに、人格崩壊している。
ついに変な歌まで歌い始め、俺の頭痛はピークに達していた。
早く止めないと、色々と支障が出そうだ。

「そんなに好きなのか、お金……」
「えぇ、お金ってだぁーいすきよっ!」

赤く染まった顔でとろけそうに笑う。
俺だってそんな顔でだぁーいすきなんて言われたことないのに。
彼女を思わず微笑ませてしまう金に、俺は嫉妬した。

「そうかよ、そうかよ……」
「あらぁ、拗ねた? 拗ねちゃった?」
「……」
「ふふふっー、お子ちゃまねー」

上機嫌の彼女は、俺のおでこを人差し指でつつく。
俺はそれを無視して、彼女の手にある通帳を奪った。

預金額の0の数は、軽く7桁を越している。
これなら、彼女が浮かれるのがわかる。
ゆっくりと見ていると、後ろからさっと奪われた。

「もうっ、ダメ! これは、私の」
「……そんなこと知ってるよ」
「話は最後まで聞け」

コツンと軽く小突かれ、耳を傾ける。
ニコニコといつにもまして機嫌のいい彼女は、ピースサインと共に言い放った。

「結婚資金よ」
「へ……?」
「結婚しましょ」

俺の前の机には、よくドラマで見る指輪のケース。
それと、婚姻届。ちなみに彼女の名前、捺印、全て完璧だ。
ちょっと待て。色々とおかしくないか。

「えーーー」
「ふふふー、楽しみねー」

クスクスと笑う彼女と、机の上の指輪と婚姻届。
突っ込み所は満載だが、幸せそうな彼女の様子に、俺は敢えてスルーした。

(08.08.08)




03.ダイアモンド
「それで、どうするつもりなの?」

適温で調節された室内。
ガヤガヤと他の客の話し声が混ざって、耳に心地よい。
夜のファミレスは繁盛しているのか店員が忙しなく動いていた。

「どうするって何の話だ?」
「……あなたが言い出したんでしょ?」
「あぁ、あの話か」

さも今思い出したかのように振舞う自分の夫を見てイラつく。
自分から持ち出した話を忘れるなんて、どれだけ呆けているのか。
そもそもそんな頭の悪い人でもないくせに。

「……私は嫌よ。こんな年になってみっともない」
「みっともなくなんてないさ。皆やってる」

手に持ったスプーンでハンバーグを崩す。
ご飯の上にレタスとハンバーグを乗せたその「ロコモコ」は、我が家では作らないメニューだ。
一口食べると、適度に焦げた肉のうまみと野菜のシャキシャキ感が口の中に広がる。
これ、案外美味しいかもしれない。

「でも、だってお金掛かるでしょう?」
「うーん、問題はそれなんだよな」

考え事をするときのあなたのクセ。
左手の薬指。
小さなダイアモンドがはまった指輪に唇を当てて考え込む。

そんな何でもない仕草が私を安心させてるなんて、あなたは思っても見ないのでしょうね。
ほんわかとあの若かりし頃と同じ気持ちになる。
彼はひどく簡単に私を嬉しくさせる。

「まぁ、どうにかなる。少なくともあの時よりは金も持ってる」
「……もう、あなたって人はいつも楽観的なんだから!」
「いいんだよ。僕の分だけ君が心配性なんだから」

そうクスクスと笑うあなたの前には、結婚式の案内状。
親しい人だけで行うその内輪の会はあと数日後に迫っている。

ふと目を下げたところに、ハリを失ったあなたの手。
あと何年も経ったら、シワシワでくちゃくちゃになってしまうのだろう。
そんな手に光るダイアモンドは、何年か前の結婚記念日にあなたが買ったもの。
お揃いで、同じくハリを失った私の手にもはまっている。

「ウエディングドレスなんて……」
「大丈夫。君は綺麗だ」
「……嘘ばっかり」

あの頃より何キロも増えた体重に瑞々しさを失ってしまった肌。
シミの目立つ顔にはシワもくっきりと出来ている。
綺麗だなんて言葉、今の私には似合わない。

「……若かった頃に、式挙げたかった?」
「……仕方なかったの。そう思いましょう」

着飾ったあなたと二人で写真を撮る。
ここ何年かで表情の柔らかくなった二人の写真は、誰が見ても幸せであふれているだろう。
余裕のなかったあの頃とは違う。
重ねた年月が私の夫をダンディで素敵なおじ様にしてくれた。
ロマンスグレー。いい言葉じゃないか。

「ちゃんとエスコートしてくれるんでしょ?」
「……うん、もちろんだよ」

あの頃の父と同じ年齢になってしまったあなたと再び愛を誓う。
それが何故かとっても素敵なことのように思えて。
私は左手にはめた指輪に、夫と同じくキスをした。

(08.07.19)




04.劣情
「行くな」
「……無理よ」

夜が明ける。一日の始まり、世界が太陽に彩られ、歓喜の産声をあげる。
そんな祝福された光景のなか、彼女は一人黒馬を従え佇んでいた。
俺の言葉に振り向きもせず、そっけない答えだけが返る。
沈黙した俺を気遣ったのか、彼女はこちらを向いて空笑いを見せた。

「わたしはね、自分の身くらい自分で守る。誰かに守られたくない」
「俺に守られるのは、嫌か?」
「えぇ、もちろん」

即座に肯定されたそれに怒りが募る。
俺の感情に気づいたのか、体を固くさせる。
それに憤りをどうにか霧散させると、彼女は体の力を抜いた。
小柄な身体、腰に佩いた無骨なものを大切そうに握り締めて笑う。

「男に守られることが当たり前の女じゃないの。知ってるでしょ?」
「……あぁ」

彼女が守られるのを嫌っていることを俺は誰よりも解っている。
それでも、好きな女が――お気に入りの腹心がひとり前線に行くのを見過ごしたりできない。
すべては決まったことで、今さら覆せるはずがないとしてもだ。

もしかしたら、死ぬかもしれない。永久の別れになるかもしれない。
そんな状況で止めなかったら、ただの馬鹿だ。それか愛情がないに違いない。
心痛に顔を歪めた俺に、彼女はあっけらかんと言い放つ。

「わたしの上司なら、わたしのことをもっと信用しなさい」
「……」
「心配しないでいい。死にはしないわ」

戦場に絶対などないと理解した上で、優しさでそんな言葉を言う。
でも、それはひどく冷たい優しさだ。
容赦なく突き刺さる言葉の刃にも等しい。
思わず怒鳴ろうとした俺に、彼女は頼りない笑みを見せた。

一人置いていくことを申し訳ないと思いつつも、一度決めたことは覆さない屈強な女。
融通が利かなくて、頑固で負けず嫌いで、意地っ張りで。

そんな彼女も、別れを思って、一人泣いていたことを知っている。
泣き言のひとつも漏らさず、今日まで黙々と執務をこなして、自室で少しだけ涙を零した。
それを見たわけではないのに、知っていた。

弱い自分を頑なに隠して、強くあろうと振舞う彼女を止めることなんて出来なくて。
それでも何とか自分の許に留めたくて。

剣を握るには華奢すぎる腕を引く。
予想していたのか、抵抗なく収まる身体をきつく抱きしめる。
弓なりにしなる体をそのままに、身を捩る彼女にさらに力を込めた。

ほんの少し背の低い彼女のあごを掬う。
衝動のままに唇を重ねようとして、感触の違いに目を開いた。

「どうして……?」
「……ダメ」
「理由は?」

手のひらを間に挟まれ、拒まれた口づけ。
眉をしかめた俺に彼女は苦笑を返した。

「唇を合わせたら、止まらなくなるでしょう?」
「……」
「だから、ダメ」

にっこりとその願いが叶わないなどと微塵も思っていない顔で微笑む。
花が綻ぶような朝日に照らされた笑顔は、限界だった俺の精神をあっけなく破壊した。

強引に後頭部に手を当て、力任せに引き寄せる。
ゴツンと歯と歯がぶつかった鈍い音を無視して、目の前の女に集中した。
必死に侵入を拒む唇に、自分のそれを強く押し付ける。
柔らかく挟み込んで音を立てた。

目がくらむような劣情。
猛烈な赤が閉じた視界に過ぎる。

「嫌だって言ってっ……、んっ」
「……」

開いた唇を割って、舌を滑り込ませる。
逃げようとする彼女のものを絡め、口内を蹂躙した。
歯列をなぞり、背を撫でると、細身の彼女の体が震える。
時折漏れる吐息はひどく切ない。
熱くなった唇を離すと、潤んだ瞳にぶつかった。

「はぁっはぁっ……何なの?」
「……これぐらい許せ」

息の荒い彼女の首筋に顔を埋める。
そこからはいつもの匂いがして、胸に浮かんだ淋しさを煽った。

「何をしたって、お前を止めることは出来ないんだろ」
「……長官」
「だから、キスぐらいで喚くな。うるさい」

もしかしたら、これが彼女との最後のキスになってしまうかもしれないのだから。
出立の時間が近い。ゆっくりと話をしていられるのもあと僅か。
そんな時くらい、感傷に浸らせてくれたっていいではないか。

クスクスと呆れた笑いを響かせ、俺の背に手が回る。

「……うるさいって、ひどい人」
「お前よりはマシだ。俺を置いていくんだからな」
「……それは」

視線を逸らした彼女の頬に手を当てる。
合わされる瞳。弱さに揺れる彼女。
不安が見え隠れする目に、力強く笑う。

「何も言わなくていい」
「……」
「ただ約束しろ。……絶対帰って来い」

驚いたように目を見開く。
その表情がただ愛おしくて、俺は微笑う。
ポロリと零れたそれを拭う。

何かを吹っ切ったように晴れ晴れとした朗笑。
カチャンと剣がこすれる音がした。

「無事に帰ってきたら、俺の所に来い」
「……長官」
「待ってる」

答えるように首に回された手に、俺は目を細めた。

(08.09.07)




05.囁く
ガラリと鈍くて静かな、襖を開ける音がした。
すり足で近づいているのか、足音が畳をこする。
軋んだ床に影の落ちる布団。今夜はひどく暑かった。

「……起きてる?」

その言葉に、僕は一言も返さなかった。
覆いかぶさる気配に身体を強張らせて、神経を張り詰めて、次の言葉を待つ。

「大好きだった。本当よ?」

大丈夫、気づいてる。僕はちゃんと知っているんだ。
それがもう、過去形でしかないことに。
今、その気持ちが君にとって重荷でしかないことを。

「でも……」

その言葉の後に続くものを知っていた。
耳をふさいでしまいたい心境を、どうにか耐える。
起きてることを悟らせたくなくて、身じろぎ一つ出来ない。

「さよなら……」

生温かい息が顔にかかる。
こめかみに落とされた口付けに思わず目を開きそうになった。
でも、淋しそうに囁かれた、別れの言葉が僕を思いとどまらせる。

行かないでなんて言わない。
淋しいなんて言えない。
君を困らせることを僕は出来ない。

それを知っていて、きっと起きてることに気づいていて。
別れを告げる君は、なんてずるい人。

でも、そんな君が……好きだった。
本当に、好きだったんだ。

再び軋む畳。襖を閉める音。
世界は夜に包まれた。

(08.07.17)




06.甘い
「お前が欲しい」
「……ふーん、それで?」

革張りの回転椅子に座る小柄な少女は、外の景色を見ていた身体をこちらに向けた。
椅子の回るキィーッっという音がやけに部屋に響く。

「それで君はどうしたいって言うんだい?」
「だから、お前を……抱きたいって思ってる」
「……ふーん。それで?」
「だからっ……――!?」

なお言い募ろうとした俺の顔すれすれを鋭い何かが飛んだ。
振り向くと、磨きあげられた床に万年筆が刺さっていた。
それに絶句し、体勢を元に戻す。

椅子の上で偉そうに腕を組む少女の瞳は、どこまでも冷たい。
まるで冬の冷たさだけを切り取ったような目は、俺を睨んでいた。

「何回も言ってるだろ? 僕は、君のものにはならない」
「お前……」
「君があの子と別れたって、それは関係ないのだよ」

その一瞬だけ、少女の目に過ぎったのは、嫉妬。
俺は確かにそれを見て、目を見開く。
そんな俺の様子に苛立ったのか、少女は顔をしかめた。

「彗」
「呼ぶな、馬鹿」

思わず名前を呼んだ俺に、少女は重厚な机の引き出しを開けた。
それに嫌な予感がして、すばやく近寄る。
案の定、沢山の万年筆がディスプレイされていた引き出しを、彗が開ける力より強い力で閉めた。

俺に邪魔されたのが悔しいのか、彗は切れ長の目で思いっきり睨んでくる。
それに俺も返し、しばらく二人で睨みあう。
この不毛な争いに嫌気が差したのか、先に折れたのは彗だった。

「……」
「だって、君は全てをくれないだろう?」

視線を逸らし、ポツリと呟く。
その言葉の意味を考えるよりも先に、彗が動いた。
ネクタイを思いっきり引っ張られ前のめると、息がかかる距離に彗の顔があった。

「僕はね、全てが欲しいの」
「……」
「どうせくれるなら、全部ちょうだい」

表情を消した顔に、意志の強い瞳。
傲慢なまでに全てを望み、けれど全てを手に入れられない支配者の顔。
ありあわせの何かじゃ、この少女の隙間は埋められない。

彗が望むのはただ一人――俺の全て。
でも、俺は俺の全てを彗にあげられない。
彗だって、俺に全てを捧げられない。

この少女が支配者であろうとする限り、俺と彗は平行線のまま。
何も変わらない。

「全部じゃないならいらないよ」
「彗」
「……だから、呼ぶなと言ってるだろう」

頬に添えられた手に俺もそれを重ねる。
ただそれだけの行為に、わずかに微笑む彗は、俺と共にいてもやはり孤独だった。

(08.08.08)




07.秘密
「私ね、恋人できたんだ……」
「え……」

私の唐突なカミングアウトに、あなたは驚いたのか目を見開いた。
そんなあなたを一瞥して、私は前を向いた。
ゴトン、ゴトンとけたたましい音を立てて電車が通る。
高速で目の前を横切る鉄の車体を、どこか呆けながら見ていた。

「おい、空?」
「だからね、私。あなたと友達やめようと思うの」
「……空?」

ようやく電車が遠ざかり、話が出来る環境になる。
名前が呼ばれたのを無視して、私は本題を切り出した。
突然の宣言にあなたはあんぐりと口を開けた。

「友達をやめましょう。前みたいに他人になって……」
「どうして? 友達やめる必要なんて……」
「ダメなの。離れなくちゃ」

『これ以上好きになる前に』
そう囁いた言葉はあなたに聞こえただろうか。

好きになってはいけない人だった。
異性として好意を持つことを、自分の中で禁じていた人だった。

なのに私は、あなたに恋してしまった。
想いを止めようと思えば、思うほど止まらない。
むしろ加速するように膨らむ。

だから、私はこの関係を切らなくては。
気持ちが掠れるまで距離を置いて、「好き」を忘れないといけない。

でないと、あなたの傍に『友達』としていられない。
このままだと私は、それ以上を求めはじめてしまう。

そうなる前に、離れなければいけない。
たとえ、約束を破ったとしても。

「裏切って、ごめんなさい……」
「……」
「約束、守れなくて……」

自分の謝る声がどこか遠くから聞こえる。
電車は通っていないはずなのに、何故か聞き取りづらかった。

踏み切りのバーが開く。
歩みださないあなたを放って、私は前に進んだ。
追いかけてこないことは、大体予想がつく。

ずっと友達でいたかった。裏切りたくなんてなかった。
誰よりも信じて、誰よりも裏切りたくなかったのに。

あぁ、やっぱり裏切られるのも、裏切るのも、心が痛い。
人を信じて裏切られるのは、どうしてこんなにも痛いんだろう。
きっと裏切った私より、裏切られたあなたの方が痛いはずだ。

でも、私は当人であなたの傷を癒すことは出来ない。
傷つけてごめんねと謝ることさえ出来ないのだ。
その深さを誰よりも知っているが故に。

「空っ!!」
「……?」

切羽詰った呼び声に、振り向く。
閉まる踏み切りの反対岸、ギリギリのラインにあなたは立っていた。
少しだけ泣き出しそうな歪んだ顔で。

「それでも俺は、お前がっ――」

電車が横切る。言葉は轟音にさらわれた。
さっさとここから立ち去らなければと思うのに、体が動かない。
あなたを裏切った私には、許されないことかもしれないのに。
それでも、その言葉の続きを聞きたいと思った。

(08.09.30)




08.別れ
「ほら、手。迷子になるだろ?」
「……うん」

差し出した手を軽く握られる。
俗に言う『恋人つなぎ』でつながれる手は、ほんのりと温かい。
先導する彼の後ろをついていく。
私のゆっくりした歩調に合わせてくれる彼に、思わず微笑む。

「ありがとう」
「何が?」
「ううん、なんでもない」

彼と過ごすのは楽しい。
なのに、いつもネガティブなことを考えてしまう。
心配性な自分の悪いクセだ。

今も、できることなら、今この瞬間に息を止めて欲しいって思ってる。
そうしたら、幸せなこの時だけを覚えていられる。
これから来るかもしれない別れを体験しないで済む。

だから、嫌なのだ。
手に入れたと思ったら、この手をすり抜けてゆく。
いつだって失ってしまう。

些細なことが原因だったり、大喧嘩したり。
思い当たることは色々とあるけれど、結局はいつも一緒。

失う。そして私は、抜け殻になる。
恋人を失って、心を傷だらけにして、何も手につかなくなる。

そうなるならいっそ、恋なんてしなければいい。
恋なんてしなければ、傷つくこともなく、平穏無事な人生が送れるだろう。

でも、きっと。私は恋をしなくちゃ死んでしまうのだ。
海を泳ぐマグロが、泳ぎと共に心臓を止めてしまうみたいに。

「ん、どうした?」
「……ううん。なんでもない」

手に入れて手放すくらいなら、最初から手に入れないほうがいい。
今だってそう思ってる。

けれど、私は恋によって生かされ、恋のせいで死ぬのだろうから。
いつか失うその時まで、私は、この手のぬくもりを離さなければいい。

(08.08.08)




09.永遠
「そんなに早く大人にならないでくれ」
「どうして……?」

抱きしめる少女は私の胸に寄りかかって、本を読んでいた。
その身長は座り込んでいるのに、私のみぞおちより低い。

長い髪の毛を手ぐしですいていく。
絡まることのない髪はつやつやしていて、私を楽しませる。
本を読む手を止め、少女は髪を梳く私の手を遮った。

「理由を教えて」
「……私のため、なんだろう?」
「……えぇ、そうよ」

年の割に大人びた話し方をする少女は、頬を少しだけ赤く染める。
多分、私のためにやっていたことを悟られたことが恥ずかしいのだろう。
そういう所が可愛いと思う。

「私はね、それが私のためだと分かっていても嫌なんだ」
「……何故?」
「だって、君は……大人になったら、私から離れていくかもしれないだろう?」

理由なんて訳ない。
私が女々しいだけで、少女の成長を妨げる理由になんてならない。
子供っぽい独占欲のせいで、少女が大人になることを止めてはならない。
分かってはいるが、ただそれを嫌だと思った。

「色々な世界に触れて、色々な人に会って、君は私を忘れてしまうかもしれない」
「……忘れるわけ」
「うん、君に限ってはないだろうね」

そんな薄情な子じゃないことは知っている。
それでも、忙しい日々は、いつかは大切だったことまで薄らげる。
大人になったら、君は私を思い出すこともしないだろう。
これは予感じゃない。確信だった。

「私は君がそうなる前にね」
「……」
「君を閉じ込めてしまおうかなんて、考えてるんだよ?」
「――いいよ」
「え……?」
「閉じ込めてもいいよ。あたしは、あなたが好き。だから、許す」

いつの間にか、向かい合わせになった少女は、私の目をまっすぐ覗き込む。
その瞳には、嘘や駆け引きなどの不純なものは一切含まれていない。
私への気持ちをストレートに目で伝えてくる。

「あたしは大人になる。あなたに釣り合う女になりたいからよ」
「……」
「その途中で、どんな世界に触れて、どんな人に会って、あなたがあたしに何をしても嫌いになんてならない」
「アリア……」
「愛ってそういうものでしょ?」

この少女は、もう少女なんかじゃない。
立派に一人の女だ。
誰かを愛して、誰かに愛されることを覚えた一人の女。
子供だなんて冗談じゃない。

「永遠を誓うなんて、無責任なことは言わない」
「アリアッ!」
「でも、誓うわ。生きてる限り、あたしはあなたのものよ」

大声で名前を呼んで、思い切りかき抱いた。
痛そうに呻く少女の手が、私の背を撫でる。
そのゆったりとした動作に、ひどく安心する。

「……君には、敵わない」
「あら、当たり前でしょ?」

耳元で可笑しそうに笑い、少女は身体を離す。
その表情は悪戯を思いついた子供のようで、我侭を言い出しそうな女にも見えた。

「恋する女は無敵なのよ?」

全てを悟り、クスクスと笑う少女は、まるで羽化する蝶のように。
美しい女になった。

(08.07.30)




10.夜
「君を守りたい。だから、僕は行くよ」
「……勝手よっ! そんなっ、守られたって嬉しくないっ!」
「ラーナ……」

暗く月明かりの届かない森の入り口。
服の端を握って引き止めるあたしの頭を、残酷な手が往復する。
悔しくて、悲しくて、俯いたあたしに彼はクスクスと笑う。

「もう決まっちゃったことだから、ね? 分かって?」
「……いや。全部捨てて、一緒に逃げてよ。まだ間に合――」
「僕はね、最後まで騎士として誇り高くいたいんだよ。君の騎士として……」

唇に指を当てて続きを拒む声は、どうしようもなく固い。
あたしに相談なしで全てを決めた彼は、別れを悲しんでいるようには見えなかった。
悲しんでいるどころか、喜んでいるようなその振る舞いにひどく腹が立った。

「あたしと離れて悲しくないのっ!」
「……悲しくないと思ってる?」
「あたしに比べれば全然よっ!!」
「……そう。なら、それでいいよ」

投げやりに放たれた言葉に怒りが増幅する。
殴りつけようと握り締めた拳が、パシッと掴まれる。
その強い力に目を見張る。

「僕が望んで置いていくとでも?」
「……でも、だって、あんたは残ってくれないじゃない」
「うん、ごめんね」

敵を見るような鋭い眼光。
初めて向けられたそれは、あたしの心音を早めた。
思わず俯いて、呟いた言葉に謝罪が返る。
口先だけのそれなら、しない方がいくらもマシだと何度言えば分かるのか。

男の人は、彼はいつだって自分勝手。
あたしのことなんて考えずに、自分のしたいことをする。
悪いと謝ったとしても、口先だけなのだ。

「あんたはそれでいいかもしれないけど、残されたあたしはどうするのよっ!」
「……」
「あたしはあんたと一緒にいたいのに、あたしはあんたがいればいいのに……」

叫びすぎて喉がヒリヒリと痛い。
でも、その痛みは今にも潤みそうな視界をどうにかクリアにする。

言いたいこと、伝えたいこと。したかったこと。
まだたくさんあったというのに。

愛情があるなら、あたしを好きだというのなら、生きていて欲しい。
身を挺して守ってもらっても、隣に彼がいなくちゃ駄目だ。
それなのに、私を守って死ぬと言う。そんなの嬉しくなんてない。

「勝手でごめんね……」
「どうして、どうしてよっ……」

引き裂かれるなら、知らないままでいたかった。
こんなぬくもりを中途半端に与えて、放り出さないで欲しかった。
何を言ったら、どうしたら、この頑固な人を止めることが出来るだろう。

溢れる涙。拭う指。
触らないでの言葉をあたしは言えなかった。

「あんたなんか嫌いっ! あたしを置いてくあんたなんてっ……」
「……うん、嫌っていいよ。覚えてなくていいから」

そう言って、見せた一瞬だけの淋しそうな微笑。
あたしはまた涙を流す。

「どうか幸せに……」

掠めるようにおちる口付け。触れるだけでひどく痛い。
身体中が悲鳴を上げて、別れを拒む。

もう時間がない。夜遅く、彼の部隊は遠い異国に旅立つのだ。
片道だけの食料を持って。

「カイ……」

自分より頭二つ分高い彼を引き寄せる。
素直に顔を近づけた彼に唇を重ねた。

深い深いつながり。
最後のキス。掠めるだけじゃ全然足りない。

忘れないように、忘れられないように、溶けるように交わる。
余裕を奪って、主導権を握って、終わったらすぐにでも手放せるように。

どうしても彼が行くというのなら。
どうしてもあたしのために死ぬというのなら。

深く刻み込んで、長く傷つけて。
それでいて、あたしを想っているがいい。
その死の瞬間まで。

(08.09.08)




11.冷たい
「待てよ」
「嫌」

走る。走る。走る。
追いかける彼女は、俺から逃げるようにどこまでも走る。
それを捕まえるべく、俺は少しだけ加速した。

「待てって言ってるだろ!」
「っ……!?」

前を走る彼女の手を、思い切り引っ張る。
その反動でつんのめった身体を支えた。
振り向いた顔はひどく歪んでいて、俺は動揺する。
頬を伝う涙が地面に染み込んだ。

「お前……何で泣いて」
「……ねぇ、どうして?」

ポロポロと涙を零して、俺を見上げる。
それにまた動揺した俺は、彼女の手を離した。
ダラリと重力に従っておちた手で、彼女は目をこすった。
涙の消えた瞳は、弱々しくも強い光を放つ。

「どうして、私を好きだなんて言うの?」
「空……」
「どうして、そんな簡単に人を信じられるの?」
「……どうしてって」

俺のほうが聞きたい。
どうして、好きだという言葉を信じてくれないのか。
どうして、そうも頑なに人を信じようとしないのか。
その理由を。

「お前だって、どうして俺を信じない?」
「……裏切られたら痛いから」

呟く彼女は、白いブラウスの胸元をギュッと握る。
まるで今もそこが痛むように、少し眉を寄せて。
またポロポロと涙を零す。

「裏切られるって……心臓がきゅぅーってなるのよ」
「……空?」
「それが痛くてたまらないの。私、痛いのキライ。だから……」

人を信じないと彼女は言うのだろう。
痛みを感じたくないから。裏切られたくないから。
それなら、最初から他人を信じなければいいと本当にそう思っているのだろう。
でもそれは、ひどく悲しいことだと思った。

思わず手を伸ばす。
頬を零れる涙を指で掬うと、彼女は俺を見上げた。
その揺れる瞳に俺は優しく話しかける。

「そんなの悲しくないか?」
「え……」
「裏切られるのが怖いからって、人を信じないのって……辛くないか?」
「……うん」

人を信じられないのは、きっと辛いだろう。
誰を信じていいか分からないのは、かなり心細いに違いない。
本当は、多分彼女は誰かを信じてみたいのだろう。
でも、裏切られるのが怖くて、二の足を踏んでいるだけなのだ。

震える彼女の手を掴む。
少しだけ冷たくなったそれを俺の両手で包み込む。
俺のよりも一回り小さいそれは、ひどく華奢だった。

「……俺を信じろ」
「……」
「裏切らない……だから、信じろ」

俺のその言葉にまた彼女は泣く。
でもそれは、悲しみの涙ではなく、嬉しさに零れているようだった。

「あなた、バカよ……」
「……うん」
「私なんかと友達になりたいなんて……」
「……うん」
「私だって……誰かを信じてみたい。あなたと友達になりたいよ……」
「空……」
「信じたい。あなたを信じたいから……」

微かな力で握り返す手。それに俺も力を入れた。
俺を見上げる彼女の顔は、もう泣いてなんかいない。

「お願い。裏切らないで」
「……うん」
「ずっと……友達でいてね」
「……あぁ、約束する」

俺は微笑み、そう約束をする。
その返答に満足したのか、彼女は奇麗に笑って見せた。

<07.秘密に続く>

(08.09.30)




12.笑顔
「心に決めたただ一人がいるの」

そう言って、貴女は笑う。
表情は笑んでいるのに、目だけは笑ってないその笑顔で。
助けを求めず、全てを拒み続けたままに。

「これからもいくらだって恋をする。恋人がいてもそれは変わらない」

するりと伸ばされ、僕の頬に触れる白魚の手。
幾多の男に愛され、数多の男を篭絡する笑顔。
触れられた所から染み込む体温が、温かいはずなのに冷たく感じた。

「でも、愛しているのはあの人だけ」

その笑顔が、貴女の心からの笑顔が見られるのは彼だけ。
僕がいくら努力しても届かない空の上。
貴女の中で美化され、貴女を淋しがらせている元凶の人。

「……でも、あの方のせいで貴女はっ!」
「黙って」

傷一つない指が続きを阻む。
微笑みを浮かべる顔の中、目が淋しいと訴える。
でも貴女は、意地っ張りで一途だから、淋しいなんて言わない。
たとえ、その身が淋しさで張り裂けそうになっていたとしても。

「私が好きなのはね……」
「……」
「どこまでも優しくて、どんなときも優しくなかったあの人だけなの」

全てを悟った柔らかい笑みの裏で、心が大粒の涙を流してる。
そんな自分を理解していながら、気丈に振舞う貴女に。
何故か涙が出た。

(08.07.24)




13.歌
「おひさー、元気してた?」

小ぶりの旅行鞄を持って、片手をぶんぶんと振って近づいてくる小柄な女。
数年ぶりの再会のはずなのに、ブランクを感じさせない気軽さに肩の力が抜ける。
それもつかの間、目の前に立った綾に俺は息を呑んだ。

低い身長はヒールのせいか少しだけ高くなり、ガリガリだった身体は女らしくなった。
小さな頭につややかな唇。整えられた眉に染められたミディアムの髪。
赤みが差した頬の上の瞳が、あの頃の綾からは想像出来ないほどに挑戦的だった。

「おや、わたしに見とれてるぅー? ダメだぞーあげないよっ」

黙っていればいい女なのに、口を開けば最悪だ。
高かった声はハスキーになり、女なのに声変わりがあったんじゃないのかと誤解する程だった。

「ほら、荷物」
「うん。ありがとー」

荷物を預かり、先を歩く。
その後ろからテクテクとついて来るところも昔とは違う。

前は数メートル先を歩いて、早くと俺を急かす女だった。
そんな綾に仕方ないなと呟き、少しだけ歩調を速める。
それが俺たちの関係だったはずだ。

そびえ立つビルの間を二人無言で歩く。
沈黙に耐えられなくなってきた頃に、後ろから歌が聞こえた。

歌手も歌詞も分からない英語の曲。
微かに聞き取れた「Loving you」が通行人の足を止める。

何年経っても、何回聞いても、歌声だけは変わらない。
高く伸びやかに空に響いて、俺の心をさらりと攫う。

天使のような、女神のような歌はあの頃のまま。
ただひとつ変わらないもの。

(08.07.17)




14.劣等感
「はぁっ……」

走りすぎたせいで、強く胸を叩く心臓が痛い。
胸元に手を当て大きく息を吸う。
久しぶりの全力疾走は、運動不足の身体にかなり負荷をかけた。
でも、あの人から逃げられたのだから、これでよかったのだ。

地面に縫い付けられたような足を動かす。
それは重くゆっくりとしか動かなかったけど、必死に前に進む。

今はとにかくあの人から逃げたかった。
別れを切り出した私を呆然と見つめていたあの人から。
逃げた私を追いかけてすらくれなかったあの人から。
少しでも遠くに。

別れを言ったのは、引き止めてほしくて。
逃げたのは、追いかけてほしかったからだ。
追いかけて捕まえて、『逃がさない』って言ってほしかった。
好きだから放さないって言葉が聞きたかった。

私は、誰かに好かれるような人間じゃない。
なのに、あの人は私のことを好きだって言う。

私は、私の価値が分からない。
どうして私を好いてくれるのか分からない。

だから、私に誰かが追いかけてくるような価値があるのか試した。
追いかけてくれるようなら、私には価値があるのだと、そう思いたかったから。
自分一人で賭けをした。

その結果は惨敗。
あの人は追いかけてなんてくれなかった。
私にはそんな価値はなかった。
叶わない夢を見たのだ。

「敬大さん……」

嫌いだから逃げたんじゃない。
これ以上好きにならないために逃げたのだ。
このどうしようもない劣等感から。

「敬大さんっ……!」

呼んでも、呼んでも。もう二度と来ない。
淋しいときに慰めてくれた。嬉しいときに抱きしめてくれた。
あの腕はもう――

「南っ……」

近づく足音。声に反射的に振り向こうとした私の背に何かがぶつかる。
それは、ひどく柔らかくて、温かくて、視界が潤む。
ぼやけて見えなくて、それでも見たくて強く瞬きをした。
頬を生ぬるい何かが伝う。

「南」
「っ……!」

もう限界だった。
お腹に回された腕を解き、身体を反転する。
見覚えのある白いシャツに、私は勢いよくしがみついた。

(08.09.01)




15.口付け
「殺してやるっ……!」
「……」

地面に這いつくばって、無様にも生き延びたオレに、黒々とした拳銃が向けられる。
それの持ち主は、細い銀のフレームの眼鏡をかけ直して、オレを冷ややかに見下ろす。
その視線を真っ向から受け止め、動かない身体を引きずり、彼女の靴を掴む。

途端、汚いものを蹴飛ばすように手を踏まれた。
かかとでグリグリと思い切り体重をかけられ、オレは悲鳴をあげる。

「……クソッ……お前だけは――」
「……ねぇ、恨んで」
「えっ……?」
「恨んで、嫌って、憎しみであたしを殺しに来て」

思わず聞き返したオレの手に、さらに体重をかけ、彼女は何の感情もこもらない瞳で言う。
手の痛みに動けないでいるオレの胸倉を掴み、その細腕で持ち上げられた。
宙に浮くつま先。歯を食いしばってる様子のない無表情な顔。
息が出来ずにむせるオレの唇に、柔らかいものが触れる。

傲慢なほど優しい唇は、予想と違い体温を持っていた。
首筋にあたる冷たい拳銃と、それの温度に現実感が霧散する。
離れては近づき、角度を変えて、呼吸を奪われる。

視界が白みはじめた時、突然強い力で突き放される。
顔色一つ変えない彼女の手には、安全装置をはずした武器があった。

「……殺さないのか?」
「えぇ、殺さない。もったいないから」
「……もったいない」
「あたしは、あなたに殺されたい」

その言葉は、二発分の銃声と共に吐き出された。
両肩に走る形容しがたい激痛。
容赦なく神経を狙ったそれは、強烈な愛の告白。
いたく歪な愛情表現に見えた。

「それだけのために……」
「……うん、あなたに恨まれたかったから」

オレに恨ませ、殺させるために、彼女は3人の男を葬った。
重要な作戦にオレを配置し、装備に細工し、その結果、彼らは死んだ。
オレは唯一の生還者としてその責任を取らされ、彼女の思い通りの展開となった。

「……これで満足か」
「……」
「オレを殺せよ」
「……お願い。いつか殺しに来て」

両肩から大量の血を流すオレと、無傷のまま未だに拳銃を向けている彼女。
彼女の背後の扉が開き、部下たちがワラワラと集まり、オレを担架に乗せる。

最後に見た彼女は、何かに耐えるように目を閉じていた。
拳銃がその手をすり抜け、床に落ちる音が、やけに耳に響いた。

(08.08.09)




16.友達
「悪いね、付き合ってもらっちゃって」
「……いいですよ。由佳のためですから」

作り物の笑顔。社交辞令。
この男の前ではいつも標準装備されているそれが一瞬崩れそうになる。
呪文のように『笑顔、笑顔』と心の中で呟く。
そうしていないと、いまに作り物の笑顔を壊して、思い切りにらみつけてしまいそうだ。

例えば、この男が友達の彼氏だからといって、あたしが好きにならなきゃいけない理由があるのだろうか。
どうしても人間的に好きになれない男が、友達の彼氏だったら。
あたしはその男とも仲良くしなくちゃいけないのか。

「早紀ちゃん」
「……あ、はい。何でしょう?」

名前を呼ばれるたびに、虫唾が走って。
顔を見るたびに予感がする。
あたしは、こいつを一生好きになんてなれない。

「ねぇ、早紀ちゃん」
「はい?」
「君……俺のこと嫌いでしょう?」

その言葉に、不快指数が上がる。
思わず睨みつけるあたしを、この男は余裕の笑みで見返す。
それに確信する。

やっぱりこいつを、この男をあたしは好きになんてなれないのだ。
こんな由佳を不幸にしそうな男、あたしは大っ嫌いだ。

「……そうよ、あんたなんて大っ嫌い」
「そうか、クククッ」

使っていた敬語をやめ、敵意を隠さずに言い放つ。
そんなあたしを見て、喉を思い切り震わせて、可笑しそうに笑う。
その声も笑顔も、何もかも全てがあたしを不快にした。

「嫉妬……だよね、早紀ちゃん?」
「っ―――!?」
「俺が由佳をとっちゃったから、悔しくて仕方がないんでしょ」

図星をつかれて、言葉を失う。
もしかしたら、悟られてるかもしれないとは思っていた。
けど、これ程までに解られているとは予想もしてなかった。

「あははっ、図星って顔だね。……本当に君は面白い」
「……あたしは面白くない」
「ふーん、まぁ、俺には関係ないけどね」

発言がいちいち気に障る男だ。
あたしをわざと不機嫌にしているとしか思えない。

「まぁ、どれだけ君が足掻いても、由佳は俺のものだよ」
「……知ってるわ。あんたに言われるまでもない」
「……それならいいけど」

だから、悔しくて、やるせなくてしょうがないんじゃないか。
この男の隣にいて由佳が幸せそうに笑っている。
それだけで、二人の仲を邪魔しようとする気が失せる。
でも、気に食わないものは気に食わない。

「さっさと別れればいい」
「……それはないね」

馬の合わないこの男と、あたし。
似てないようで似ている二人。
共通点は唯一つ。

由佳を死ぬほど愛してること。
でも――

「あんたよりも、あたしは、由佳のこと、愛してるわ」

吐き捨てるように言い逃げして、あたしは前を歩く男を抜かした。

(08.08.05)




17.悪ふざけ
「お願いです!」
「……イヤ。何度言ってもムダ」
「何度だって言います。付き合ってください!」

煌びやかに光るネオンの中、その女性は煙管で遊んでいた。
土下座した俺を一瞥もしないで、一心にそれの掃除をする。
そんな彼女の態度にムッとする。
嫌がらせのように半歩分近づくと、彼女はやっと顔を上げた。

「お願いします」
「だから、言ってるでしょ!」

眉を寄せて、グルグルと煙管を回す。
その度に飛び散る灰が綺麗に磨かれた床を汚した。
赤く縁取られた小ぶりの唇が、拗ねるようにかたどられる。

「……童貞はイヤなの」
「そこをなんとか!」
「却下。イヤよ、そんなの」

満面の笑みで拒絶され、俺の強靭な心も折れそうになる。
でも、負けてなんかいられない。
これまで19765回も断られているが、それぐらいで引く俺じゃなかった。

「俺の恋人になってください!」
「……冗談やめてよね」
「冗談じゃありませんっ!!」
「……」
「……本気なんです」

無表情のまま黙り込む彼女と、その返答を待つ俺。
広すぎる豪華な部屋に沈黙が落ちる。

静寂に耐えかねて俺が動こうとすると、彼女はため息をついた。
持っていた煙管を傍らにおき、彼女はこちらに歩む。
そして、座り込んだ俺の前にしゃがみ込んだ。

「いいわよ。ほら、いらっしゃい」
「えっ……」

屈みこんだその膝の隙間から、大きな膨らみが二つ見える。
それはひどく白くて、触ったらとても柔らかそうだった。
コクリと、自然に喉が鳴る。
俺の劣情を撫でるように、彼女は妖艶に笑う。

「あら、わたしとヤりたいんじゃなかったの?」
「ヤッ、そんなことっ――!?」

そのあまりにも露骨な表現に俺のほうが照れる。
黙り込んだ俺の脚の間に、彼女は身体を挟んだ。
俺の胸に手を当て、優しく押し倒すように力を込める。
半開きの唇の奥、燃えるような赤に目を奪われた。

「ねぇ……やりましょうよ」
「えっ、でも……そんな」
「……ふふ、冗談よ」

雰囲気を一転して変えた彼女は、俺の上からすばやく退いた。
それに呆然とする俺に、してやったりと言わんばかりの表情を見せる。
からかわれた。それに気づくのに時間はかからなかった。

大人の彼女に追いつくのは簡単なことじゃない。
そんなことを改めて自覚して、俺はひとり頭を抱えた。

(08.09.25)