18.楽しい
「なぁ、真美子。楽しいか?」

義務のようにこなす情事の後、ふいに隆はそう聞いた。
その言葉に、私はどう返すべきだったのだろう。
動揺のあまり黙り込む私の頬に骨ばった手が触れる。
それにつながる隆の顔は、哀愁に満ちて、見ているこちらが切なくなった。

「何、言って……」
「俺といて、本当に楽しいか?」
「そんなの楽しいに決まってっ……!」
「なら、どうしてそんな顔をしてる?」

必死に否定した私の頬を撫でる。
慈しむように、愛おしいと伝えるように往復する愛撫。
そこにさっきまでの性急さはなく、ただ私への気持ちに溢れていた。
それだけに、私は悲しくなる。

キリキリと胸を捻り上げるような痛み。
鈍痛だったそれは、次第に勢いを増す。
身体の中心から広がり、全身に回る。
今はもう、身体中が痛みに染まっていた。

「いつも、泣きそうな顔してる」
「……」
「気づいてなかっただろ?」

頬に落ちる口付け。堅く閉じた目から雫が伝わる。
その軌跡を辿って舌が這う。手に取るように隆の表情が分かった。

泣いてるみたいに眉を寄せて、それでも微笑んで。
一見、何でもないように見える。
けれど、その瞳に浮かんだ胸が張り裂けそうな哀切は隠せない。

目を開けて、視線を交わす。
描いた通りの顔をしていた隆の頬に私も手を添える。
最後の砦とばかりに泣きもしない隆の代わりに、私は泣いた。

次から次へと溢れ出るそれをそのままに顔を寄せた。
近づくだけで悲鳴をあげる胸。遠ざかるほど千切れそうになる心。
伏せた目蓋にかかるその吐息に、悲しみが溶けているみたいだった。

「ごめんなさい……」
「うん……」
「ごめんっ、ごめんねっ……」

優しく追い詰めるように涙を拭う指に、謝罪を繰り返す。
何度謝っても許されない。何度謝っても放してもらえない。
その事実にどこか安堵して、私は唇を奪った。

(08.08.30)




19.噂話
「はい、あんたの分」
「あ、ありがと」
「いいえー」

シャリシャリと軽快な音を立て、リンゴが剥かれていく。
自分の手元に渡されたそれは、ウサギの形をしていた。
慣れているのか、彼女は果物ナイフを華麗に操り、あっという間に剥き終わった。
自分の分を小皿に盛って、彼女は俺の隣に座る。

「食べないの?」
「……食べるけど」
「けど? なにかあった?」
「ウサギの形じゃ食べにくい」

皮の部分を少し残したウサギのようなそれは、可愛らしくて食べるのがもったいない。
そうぼやいた俺に、彼女は苦笑する。
馬鹿にしたような笑みにムッとし、手元のリンゴを食べる。

程よい酸味と甘み。独特の舌触りを楽しみ、嚥下する。
そんな俺を横目で見て、彼女は自分のを一口含む。
俺は何気なさを装って本題に入った。

「なぁ……あいつ、結婚したって」
「……いつ?」
「6月の半ば、同じ職場の奴」
「ふーん」

興味がなさそうに呟く彼女は、二個目のリンゴを手に取った。
そして、口にくわえる。
シャリっとリンゴが真っ二つに割れる。
咀嚼して飲み込み、彼女は俺を見た。

「幸せそう?」
「……まぁ、それなりに」
「なら、よかった」

何の邪気もなく微笑む彼女に毒気を抜かれる。
突然聞かされた元彼の結婚に、彼女は動揺すらしない。
その図太さに感嘆する。

それと同時に安心した俺がいた。
もう彼女があいつのことを吹っ切っていると思うと嬉しい。
その心に住んでいるのは俺だけであって欲しいから。
彼女の反応に良かったと思った。

「俺らも結婚しね?」
「……ヤダ」
「なんで?」

俺の唐突なプロポーズに、少しだけ思案顔になる彼女。
その後、すぐに断られたそれに、俺は疑問を持った。
呆れたようにため息をつく彼女の答えを待つ。

「だってあんた、まだ結婚できないでしょ?」
「……そうだけどさー」

でも、あと数ヶ月も経てば、俺も立派に結婚できる年だ。
未成年とはいえ、親から許可さえとれば問題ない。
そして俺は、それをもぎ取れる自信があった。

リンゴを取ろうとした彼女の手を掴む。
左手の薬指、まだ誰のものでもないそれを撫でる。

「じゃあさ、この指予約しといていい?」
「……大人になったらね」

されるがままになりながらも、やんわりと彼女は断る。
いつまでも俺を子供だと思っている彼女に、待ってろよと心の中で呟いた。

(08.09.22)




20.鍵
「ダメっ!」
「いいじゃないですか、義姉さん」

近づく腕を思い切り払いのける。
その手を強く掴まれ、顔をしかめた。
びくともしない右手が混乱を煽る。

「よくない! あなた、何言ってるか分かってるの!?」
「……分かってますよ。分からずに兄嫁なんて口説きません」

必死に押し返そうとする左手が柔らかく掴まれた。
そのまま口元に持ってかれる。
この後の展開が予想できて、私は手を振り払う。

それに傷ついた表情をするあなたはずるい。
私は悪いことをしていないはずなのに、そういう気分にさせる。
悪いのは、兄嫁に横恋慕しているあなただって、理性では理解してるのに。

「私は、あなたの兄さんのっ」
「そうですね。……あなたは人妻だ」

潤んだ瞳に炎を宿して、あなたが目の前に迫る。
掴み損ねた左手をもう一度柔らかく握られる。
微かにかかる吐息に、抵抗を思い出す。

でも、出来ない。
夫によく似た目元、口元があなたを拒めなくする。
優しく押し付けられた唇が、間をおいてゆっくりと離れた。

「でも……それでも、愛してます」
「……」
「愛してるんですよ、義姉さん」

あぁ、その言葉はどれだけ容赦なく私を縛るのだろうか。
言われたその一言だけで、私は身動きを封じられる。
まるで、鳥篭に心が囚われて、行き場を失くしてしまったみたい。
見つめる目から愛が染み込んで、私はその重さに動けなくなる。

緊張で強張る身体をひんやりとした手がゆっくりと撫でた。
それだけで触れられた部分が熱を持つ。
唾を飲み込む音がやけに部屋に響く。

その、身体に触れたい。
何のためらいもなく、そう思った。

「……知らないわよ」
「……えぇ、一緒に地獄に落ちましょう」

首に腕を回し、性急なキスを受け入れる。
罪悪感で痛む胸から、必死に意識を逸らして、心に鍵をかけた。

(08.07.26)




21.拘束
「ねぇ、今日はどれがいいと思う?」
「うーん、これかな?」
「サンキュ」

クローゼットに沢山あるそれを、あなたは毎朝、私に選ばせる。
まるでそれが当然とでも言うように自然な流れで。

あなたは私の手にそれを握らせ、自分の前に立たせる。
身長差があって、私の手はあなたの肩にようやく届くほど。
見上げるあなたは、いつも通り私にされるのを待っている。

それにため息をつき、あなたの肩にそれをかけ、前に回す。
左右の長さを調整して、私はネクタイを結ぶ。

「アゴあげて」
「ん、……ちょっと締まる……」
「あっ、ごめん。これくらい?」
「あーうん。そんな感じ」

手早く結び、片側を引っ張ると締まりすぎたのか、あなたの顔が歪んだ。
その表情に結び目を引っ張ってゆるくする。
一度身体を離して見る。形も長さも完璧。
毎朝の習慣だ。上達しないはずがない。

「はい、できたよ」
「うん、ありがとう」

額に落ちる口付けに、毎日私が締めるネクタイ。
それは、私だけに許された特権で、私が確かめる愛の証。
私だけがあなたを縛れて、あなただけが私を縛れる。
子供っぽい独占欲を満たすための儀式だ。

「私だけ?」
「うん、お前だけ」

私が欲しい言葉をくれたあなたに、私も口付けを返して。
私は、ネクタイピンをとめた。

(08.07.21)




22.罪
「ねぇ、分かって」

抱きしめられた部分、触れる背中はとてもあたたかい。
その温かさは、会話の内容にはひどく不釣合いだ。
身体をずらすと、冷たい空気が私たちの間に流れ込む。

「貴方が好き。でも、私には一番がいる」
「……」
「ひどい女でしょ? 他に思ってる人がいるのに、告白を受けるなんて」

あまつさえ、今この瞬間に手放そうと思っているのだから。
わがままで自分勝手で、なんてひどい女なんだろう。
そう思っても私は、この腕の中にこれ以上納まっていられないのだ。

「どれだけ愛しても、一番には出来ない」
「……それでもいいから……」
「駄目……」

背後から回る腕に自分の手を添えて剥がそうとする。
それに反発するみたいに強まる締め付けに、そっと息を吐いた。
自然、聞き分けのない子供に対するような、柔らかな声になる。

「ダメ。私を許さないで」
「……」
「許されたら甘えちゃう。そんなの嫌」

許されたくなんてない。だって、これは罪なのだ。
一番がいる身の上で、誰かを好きになってしまった。
そして、貴方を悲しませてしまった。

私の罪だ。
今、昴の吐息が切なさそうに漏れるのも、声に悲痛が滲むのも全て。

「……甘えて欲しいと言っても?」
「……私は、もう誰かに恋しちゃいけなかったのよ」
「どうして……?」
「その人を傷つけてしまうでしょう?」

頑固な私の意志を変えることは、今も思ってるあの人でさえ無理だったから。
これからもこの考えは変わらない。
だから私は、誰かを傷つけないためにも、恋をしては駄目なのだ。
それすらも私の偽善なのかもしれないけど。

「……傷つけてくれて構わない」
「……優しすぎるわよ、昴」
「優しくなんて、ない」

首筋からくぐもって届く声は、何かを抑えるような痛みを含む。
それに気づいて振り向こうとしても、昴の手が拒んだ。

胸元の締め付けが増える。
まるで一時でも離したら、私が消えるとでもいうように。
強く、きつく、息が止まるくらいに抱きしめられる。

「本当に優しい男は、すぐにあんたの手を離す。これ以上、あんたを傷つけないために」
「……」
「でも、俺は……何があってもあんたの手を放せない」

その言葉に咄嗟に振り向くと、ちょうど視線にぶつかる。
顔は微笑んでいるのに、瞳だけは確かな意思を持って、私を放さないと告げていた。
それに鼓動が早まる。ずくんと身体の中心に痺れが走る。

この感情は私にも覚えがある。
身を焦がすような、傷つくことも恐れない、強烈な独占欲。
初めて昴が見せたそれに、肌が粟立つ感触がした。

「あんたが誰を思ってようと……俺はあんたが好きだ」
「……昴」
「だから、あんたが泣いて嫌がっても、たとえたくさん傷ついたとしても、放さない」
「……」
「もう手遅れだよ。諦めろ」

傲慢なその言葉を、私は呆然と聞いていた。
放さないと言うわりに、胸元の締め付けはさっきよりゆるくて。
手遅れだ諦めろとの言葉は、情けないほど震えていた。
これならすぐに逃げ出せるというのに、そうする気が起きない。

「ひどいのは俺も同じ……おあいこだ」
「……ふっ」
「どうかしたか……?」

心配そうに覗き込む昴に、思わず笑ってしまう。
その顔は、さっきの強引な言葉とは裏腹に弱々しい。
それに我慢しきれず、私は笑い転げた。

「あはははははっ……あーダメだぁー!」

完敗だ。敵わない。
私は何を悩んでいたのだろう。

罪が何だ。傷つくのが何だ。
当人はこんなにもケロッとしているのに、私一人悩んでいるなんて馬鹿みたいだ。
悩んで損した。もう開き直ってしまえ。

「……貴方には負けたわ」

誰かを思ったまま、この人の隣にいてはいけないと思った。
だから、離れることにしたのに。
彼は、昴は、私が離れることを許さない。

それなら私は、貴方が望むとおり、ここにいよう。
たとえそれが昴の言葉に甘えるものだとしても、逃がしてくれないのは昴だ。
昴が悪い。そうやって、開き直ってしまうのだ。
ひどいのはお互い様。その通りだ。

「……甘えていいのね?」
「っ……!?」
「放さな――」

続く言葉を言いたかったのに、それは呑まれた。
珍しく余裕のない行動に、唐突に幸せだと思う。
そんな自分がひどく可笑しい。
胸元に回る腕、安心できるそれに、私は笑って身を任せた。

(08.09.21)




23.とける
「探したんだぞ……」

息を切らすその人を見上げる。
妙に背の高いシルエットは、私の知人のもの。
無意識に入っていた肩の力を抜き、ため息をついた。

私はあなたから逃げてきたのに、よりにもよって何故当人に見つかるのか。
自分の運の悪さが嫌になる。

どうせなら他の誰かに見つかったほうがまだマシだった。
連れ戻されるのは同じだが、他人のほうが逃亡の余地がある。
でもあなたは、私がまた逃げることを許さないだろう。
自分がその原因と知っていたとしてもだ。

座り込む地面は私の身体と同化して、ひどく冷たい。
こんな真冬の時期に外に何時間もいるのだから当たり前だ。
かじかんでしまって、指が上手く動かない。

「みんな心配してる……」
「……。そう」

そっけなく呟いて、私は俯いた。

顔すらも見たくないし、声だって聞きたくない。
見たら許したくなる。聞いたら笑ってしまう。
好きだから怒れない。
その理由は、どうしようもなく私を縛るのだ。

恋愛には勝敗が存在する。惚れたら負けだ。
嘘かどうかは分からないが、少なくとも私はこの人に勝てない。

黙り込んだ私と同じ位置にあなたは腰をかがめた。
覗き込む瞳に私は警戒する。

「大丈夫か?」
「……」
「みづ?」

触れたところからとろける。
私が溶け出して、分解されて、なくなってしまいそう。

それなのに、この行為は眉をしかめるほど切ない。
体温が伝わるところから、鈍痛が全身に回っていくようで。
息が出来ない。

「平気。大丈夫」
「……心配かけるな、馬鹿」

言葉は優しい。頭を撫でる手も、心配そうな顔も優しい。
でも、残酷だ。

私が好きなことを知っていて、優しくするなんてひどい。
あなたは私を愛してなんかいないのに、期待する。
期待させて、結局裏切るなんて、ひどい。

泣きたくなる。でも、泣けない。
こんなに好きにさせられた上に、泣かされただなんてプライドが許さない。

「迎えに来てくれてありがとう」
「……それが俺の仕事だから」
「……そう」

凍り付いて動かない体を無理やり持ち上げる。
自分の足で立った私に、あなたはコートを出した。

「はい」
「……ありがと」

冬用の分厚いコートに袖を通す。
襟を正す私に差し出される缶コーヒー。
私は目を瞬いた。

「…何?」
「さっき買ってきた。飲むだろ?」

無言で受け取ってプルトップを空ける。
一口含むと温かさが胃から全体に広がった。
何故だろう。コーヒーの味が何処かしょっぱい。

「みづ……?」
「……くっ、……う」

プライドなんて恋に落ちた時点で粉々だ。
もうないにも等しい。

悔しい。あなたが優しすぎて、悔しい。
私のことを十二分に考えてくれるのに、私のものにならないだなんて。
長年染み付いた上下関係はどう頑張っても覆せない。
余裕のあるその済ました顔を、ぐちゃぐちゃにしてやりたかった。

涙を拭って、強く睨みつける。
つかつかと近づいて、膝裏を蹴り上げた。
体重をかけて、思い切り押し倒す。
呆然とするあなたの胸元、黒いコートを掴んだ。

「私のものになってよ……」
「……みづ」
「無理なら……もう迎えに来ないで」

期待して苦しいのだ。好かれていること、一番なことを。
けれど、それは毎回裏切られる。どうしようもなく辛かった。
だから私は逃げたのだ。

あなたの頬に私の涙が落ちる。
それは弾かれ、冷えた地面に消えた。
こんな所でまで拒絶されていることに嘲笑がでる。

なんてお笑い種。私は一人芝居をしていたのかもしれない。

「バイバイ」
「みづ……」

立ち上がって、地面に横たわるあなたに背を向ける。
後ろはもう振り返らない。

寒さに冴え渡る脳で新たな逃亡ルートを考える。
ものの30秒も経たずに決まった潜伏先に急いだ。

ふと気づくと、手に持った缶コーヒー。
中身の残ったそれを飲み干す。
ぬるくなったコーヒーの味は、さっきより苦かった。

(08.09.14)




24.音
チュ
音を立てて離れた唇。
ペロリと艶かしく動く舌が濡れたそれを辿った。

「ねぇ、あたしたちってどういう関係?」
「……さあ?」

微笑んで、さも自分は分かりませんと言わんばかりの貴方に、怒りが募る。
関係を明らかにせずに、こんなただれた行為をして許されると思っているのか。
それとも、適当に相手をしていればいいと軽んじられているのか。
どちらにしてもイラつく。

白いシャツの胸元を捻りあげる。
顔色ひとつ変えない貴方に、あたしは眉をしかめた。

「またそうやって誤魔化して!」
「誤魔化してなんか――」
「嘘よ! そうやって白を切っていれるのも今のう――っ!?」

一瞬で詰められた距離。
間近で見る貴方の顔は、ひどく整っていて、あたしの羞恥を煽る。
言葉は呑まれ、囚われ、音を成さない。
抵抗も叶わない強い力に、あたしは目を閉じた。

唇の上を優しく滑って、絡めとられる。
撫でられるたびに、息が止まりそうになるあたしを、貴方は笑う。
残酷なほど大人なぶった、その瞳で。
あたしのことを哂うのだ。

「ずるい……」
「……」

そう囁くあたしを、冷め切った目で貴方は見た。
愛情の欠片も見えないそれに確信せざるを得ない。
あたしが軽んじられていることを。
そして、貴方にとって都合のいい女の一人でしかないことに気づく。

失望と共にどこか安堵した自分に驚いた。
この事実のどの点に安心するようなところがあるのか。
自分の心が解らない。

だがきっと、自分はただ離れたくないだけだ。
都合がいいから一緒にいるのだとしても、あたしはそれでいい。
あたしは此処に居たいから、哀れな自分の状況を見ない振りをする。
そうすることでずっと続くと、信じていたかった。

「大人は……貴方はずるいわ」
「……そう言う君は、なんかいいね」

淋しそうに呟く貴方の仕草は計算し尽くされていて、それを知っているあたしの同情すらも誘う。
腹立たしいほど大人びた笑みが、とても癪に障った。

「大人になりきれてなくて……僕には、眩しいよ」

あたしを子供と決め付け、それ以外の扱いをしない貴方に苛立ちは増える。
そんな貴方との関係は、二人の意思の及ばないところで、ほどなく終わるだろう。
ただれた日々も終幕だ。あたしも解放される。

でも、それを切なく思う。
喜びと共に手離される淋しさに胸が重たくなる。
嫌いじゃないけど、好きでもなかったはずなのに。
こんなにも、重ねた日々が愛おしい。

貴方のために、心震わせるなんてありえないことだったのだ。
だってこれは覚めてしまう夢で、現実とはかけ離れているのだから。

「あたしは、子供じゃないわ」
「……」

それでも大人なんかにはなれない。
なりたいとも思っていないのだから当たり前だ。
貴方みたいな姑息な大人になんてなりたくもない。
けれど――

「だから、今だけ……」

寄り添っていたい。
たとえ明日に全て終わったとしても、傍にいられる限界まではそこにいたい。
大人の貴方の隣にはいられそうにないから。今はこの朧げな空間のまま。
夢が覚めるのを待っている。

(08.09.13)




25.綺麗
半分あいたカーテンの隙間から光が差し込む。
白む空は朝が来たことをやわらかく告げる。
作業の手を一旦止めて、窓際に近づいた。

窓を開けると、そこから清々しい風が流れ込む。
夜明け特有のひんやりとした空気に誘われて、ベランダに出た。
持っていたマグカップのコーヒーが湯気を立てる。
一口飲むと、体がほんのり温まった。

遠く山の向こうに、雲に隠れた太陽が見える。
神々しくも美しいこの光景の中、あなただけがいない。

世界を愛して、私を愛して。
そのまま逝ってしまった人。
瞳を閉じれば、ほら、あなたの困ったようなはにかんだ顔。

人を愛して、私を愛してた。
そんなあなたの愛した、この綺麗な世界を愛してる。

生前には分からなかったから。
あなたに愛されていた世界に、嫉妬したこともあったけど。
今なら、あなたが綺麗だと連呼したこの世界の美しさが分かる。
人が好きで、何度も裏切られては泣いていたあなたの、何と愛しいことか。

あぁ、世界は、あなたは本当に美しい。

歪む視界の端に上る太陽は、文句の付けようもなく、綺麗だった。

(08.07.30)




26.世界
「怖く、ない?」
「……どうして?」

ギシっと音を立てるベットの端、腰をかけた貴方と向き合う。
手を伸ばせばすぐに届く距離。あと一歩が踏み出せなかった。

「初めてなんだろ?」
「……うん」

気遣うように、優しげに細められる瞳。
疑うことを知らないそれに、罪悪感で胸が痛む。
でも、それは錯覚だと思い込むことにする。
そうでもしないと、この計画は失敗してしまうからだ。

「おいで」
「……」

差し伸ばされた手。そこに自分のを重ねる。
思いっきり引っ張られて悲鳴を上げると、広い胸にぶつかった。

私より高い体温。軽く汗ばんだ肌。
腰に回る腕。初めて触る、男の人の身体。
少しだけ怖いと思う心を止めることなんて出来ない。

「何か変な感じ」
「……何が?」
「だって俺、姉さんの恋人の妹、抱きしめてんだぜ? 変だろ?」
「……うん、確かに変だね」

それが私に仕組まれたことだとも知らずに、貴方は私を好きになった。
これまでは、全部計画通りだ。
胸に芽生えた、馬鹿馬鹿しくもこそばゆい、この思い以外は。

見下ろす貴方の肩に手を添える。
至近距離に感じる男性に鼓動が早まる。
どれだけ覚悟しても、やっぱり恐怖感が消えない。

「好きだよ、梓」
「……うん、私も」

心にも無いことを言う自分に反吐が出る。
利用されているなんて露も思わず、私を好きだと抜かす貴方は本当に馬鹿だ。
心の底で自分の姉に復讐を誓っているだなんて、夢にも思わないのだろう。

私は、私から兄を奪ったあの女に、苦汁を舐めさせてやりたい。
だから私は、あいつの一番大事な貴方を奪うのだ。
あの女に復讐するためなら、どんな甘言も吐いてみせる。
たとえ、気持ちのない貴方に抱かれることだって、もう怖くない。

肩に置いた手を首に回す。
じぃーっと潤んだ目で見つめると、貴方は熱い息を吐いた。

「ごめん……手加減、できない」
「え……――んっ!?」

塞がれる唇。呼吸も唾液も全て呑まれる。
重なり倒れる身体。軋むベット。
捲くられた服。触れる冷たい手。
愛おしいと感じた自分を忌まわしく思った。

(08.09.23)




27.人形
「ただいま」

ずらりと並んだ僕の可愛い娘。
その手を取ってキスをする。
微笑みかけてくれる頬を一撫でして、先を急ぐ。

「ただいま、愛。ただいま、真衣」

寝室にいるお気に入りの娘たち。その愛らしい唇に触れる。
ガラス玉のような瞳。
常に笑いかけてくれる彼女たち。
永遠に僕のもの。

(08.07.25)




28.名前
「まー君」
「……ん、何?」

その名前が呼ばれた時点で、後ろにいるのは君だって気づいた。
でも、そんなにすぐに振り向いたら、まるで嬉しがってるみたいで嫌だ。
だから、俺はたっぷりと間を置いて振り向く。
そこには予想通り、笑顔の君がいた。

「それがさー、教科書忘れちゃったみたいで。貸して」
「……お前なー」
「えへへ。お願いっ、見逃して!!」

手のひらを合わせて、拝むように上目遣いで見てくる君。
その上目遣いに俺が弱いって知っていて、敢えてそれを使ってくるんだからタチが悪い。
簡単に了承するのは癪だったから、俺はもう少し焦らすことにした。

「やだよ」
「えー、お願い。ホントにやばいんだってぇー」
「どうしようかなー?」
「ねっ、お願い。まー君」
「……しょうがないな」

君がつけたあだ名。
何度も君が呼ぶうちに、その名前はとても愛おしいものになった。
今回はそれに免じて、折れてやることにした。

「ふふっ、ありがとう、まー君」
「……もう忘れるなよ」
「うん」

そう頷いて、駆けてゆく君。
その後ろ姿は、今にも踊りだしそうなほどに、楽しそうで。
俺はそれを見て、一人笑った。

(08.08.08)




29.痛み
「ただいま……」

疲れきった声で、誰もいない部屋にそう呟く。
大して広くない玄関で、ハイヒールを脱いだ。

玄関を抜けてすぐのリビング。それに続くキッチン。
片付けていない洗い物が目に付いた。

ジャケットを脱いで、ハンガーにかける。
それをクローゼットに仕舞ってから流し台に向かう。

朝食のときに使った食器が、たらいの中で、洗われるのを今か今かと待っていた。
洗剤をつけ、泡立て、食器を洗った。

朝は油を使ったものを作ってなかった。
それだけに、比較的簡単に洗い終わって、すすぎに入る。

水を出しっぱなしにして、食器をひとつずつ丁寧にすすぐ。
泡だらけのマグカップを掴んだと思ったら、それは手をすり抜けた。
ガシャンと派手な音をたてて、マグカップが床に散らばる。

それは、今さっき別れた恋人とお揃いのもの。
粉々に壊れたマグカップの残骸を、とっさに拾う。

瞬間、痛みを感じて手を引くと、人差し指から一筋血が垂れていた。
それを見て、へたりこむ。
もう、一時も立っていられなかった。

『さよなら』

そう呟く声は、震えてはいなかっただろうか。
顔はちゃんと笑えていたのだろうか。
気丈を取り繕って、嫌な女を振舞えてたならいい。
そう見えてなかったら、最悪だ。

『どうしてだよっ!?』
『……もう好きじゃないから』
『……!?』

嘘だ。

『そんな、そんなこと、一言も……』
『言うわけないでしょ?』
『お前……何度も、俺に好きって……』
『あはっ、そんな言葉信じてたんだ……』

嘘じゃなかった。
何度も繰り返した愛の言葉、全部本気だった。

『……お前がそんな奴だとは思わなかった』
『ふふ、そんな奴だったの』
『……お前なんて、お前なんてっ大嫌いだ!』

ごめんなさい。ごめんなさい。
心の中で何度も謝罪する。

別れを告げたのときの貴方の顔は、すごく傷ついた顔だった。
絶望を絵に描いたように、今にも泣きそうだった。

「嫌い、かぁ……」

あれだけ傷つけて、あんなことを言ったのだから当たり前だ。
これで嫌わなかったらどうかしてる。
でも―――

「最後まで信じてくれると思ってたんだよ……」

行くなって言って、引き止めてくれて。
私の好きじゃないって言葉を強がりだって見破ってくれると思ってた。
大嫌いなんて言われるとは、思ってもみなかった。

「痛い、ね……」

好意を裏返されることは、なんて痛いんだろう。
柔らかい何かを抉るような、よじれる痛みは、きっと貴方も感じたもの。
私に言われた言葉で同じように傷ついたのだろう。

それを思えば、この痛みにも耐えられる。
唇を噛んで声を抑えて、泣き叫ぶのもこらえてみせる。

『嫌い』

エコーをかけたように繰り返される声。
自分が蒔いた種だ。仕方ないこと。
そう思わないと苦しくて、耐え難かった。

『大嫌いだ』

でも、その言葉は痛いのだ。
どれだけ耐えても、どれだけ抑えても、貴方の「嫌い」は容赦なく突き刺さる。
今すぐにこの痛みも全て忘れてしまいたいと思うほどに。

耐えて、抑えて、こらえて、耐えて。
そうしていつかこの痛みも忘れられるのだろうか。
流れる月日が解決してくれるのか。
今は分からない。

ただ今は、まだこの痛みを覚えていたかった。
貴方と唯一繋がっている、この痛みだけは。
忘れたくないと、そう思った。

(08.09.20)




30.夢
<42.奇跡を先に読むことを推奨>

ガヤガヤと回りがうるさい。
私を呼び。指示を飛ばし、泣き叫ぶ声。
それのどれももう耳に入らない。

ぼやける視界には、うっすらと現実が見えた。
手を握る誰かに握り返そうとしても、手が動かない。
自分ももうこれまでかと、どこか他人事のように思った。

目を閉じようとして、狭まる視界に映った人に、私は驚く。
動かない身体を無理やり動かす。
指を動かすのさえ億劫だった。

透けている体。笑う顔は変わらず、優しいままで。
私の大好きな人。

「優希……」

懐かしい声。一度も忘れなかったあなた。

何年、待っただろう。
何十年、会いたいと願い続けてきただろう。

この世界であなたに会えることはなかったけど。
それでも今、また会えた。
嬉しさで胸がいっぱいで、これまで生きていて良かったと思えた。

「晶さん……」

あぁ、やっと、あなたに会えた。
幸せで、幸せで。これが夢じゃないかと思えるくらい。
夢でもいい。だから、どうか、醒めないで。

霞んでいく現実の外、慟哭が響く。
それを聞きながら、微笑むあなたを見て。
私は意識を手放した。

(08.09.30)




31.初恋
「ごめんなさい」

付き合ってください、そう告げた僕への返事。
校舎裏に呼び出しての告白劇は、あっけなく幕を閉じる。
居心地が悪そうに佇む君に、諦め切れない僕は縋りつくように問うた。

「あのさ、理由を聞かせてくれない?」
「え……?」
「自分が何で振られたのか理解してないと、あきらめもつかないから」

謝罪だけじゃなく理由が欲しい。
でないと、次に進むにしろ、諦めないにしろ、先に進めない。
この恋――初恋に、終止符を打てない。

そう思う僕の言葉に、君は目を逸らす。
まるで僕とは目を合わせたくもないとでも言うように。

「好きな人がいるの?」
「違う……」
「……俺が嫌い?」
「違うっ!!」

怒鳴るように、けれど小声で言い返した君に面食らう。
今の質問のどこが気に障ったのかが分からない。

「じゃあ、どうして?」
「……」
「教えられない、のかな?」
「……じゃないから……」

搾り出すように返された答えは、低い声だった。
思わず聞き返す僕を一瞥して、君は目を伏せる。
その様子は、今にも泣き出しそうな幼子に似ていた。

「私が欲しいのは、彼氏じゃないから……」
「……」
「欲しいのは彼氏じゃないんだ。理解者なの」

さっきの表情とは一変、淋しそうに笑って、僕を拒絶する君は、普段とは雰囲気が違った。
いつも人の中心にいて、誰とでも仲の良い君。
それが今は、全身で周りを否定して、全力で僕の接近を拒んでいた。

「だから、ごめんね」
「……」
「あなたとは付き合えない。……他の人とも」

見る者の胸を痛くするような微笑を残して、踵を返す君。
その背中は、淋しさに震えていて、なお潔かった。

(08.08.08)




32.涙
「ふーっ」

一日の疲れをとるあたしのリラックスタイム。
肩まであるお湯は、毎日のプチ贅沢として入浴剤を入れている。
適温に保たれた湯の温度は、こわばった体をほぐしてくれた。

足を伸ばして、今日一日を振り返る。
その瞬間に後悔した。

思い出したくないことがあったのだ。
忘れてしまいたくて、でも忘れられなくて困っていた。
困って、後悔して、泣きたくなった。

ここは、強いあたしを唯一泣かせてくれる場所。
風呂釜に張った沢山の水に、涙を紛れさせられるから、いくらでも泣ける。

でも、あたしは、哀しいときは泣かないって決めたから。
今流す涙は、悲しみなんかじゃない。
深い、深い後悔だ。

「どうして、あなたなんかっ……」

好きにならなければよかった。
そうすれば、こんな気持ちを知ることもなく、あたしは笑って傍にいられたのに。

いや、好きになったとしても、恋になんてするべきじゃなかった。
限界が来るまで、あたしは知らない振りをするべきだったのだ。
自分の気持ちに蓋をして、仮面をかぶっていれば、いつまでもあのままでいられた。
あのままでいられたのだ。

なのに――

「あなたが優しくするからっ……」

肩に触れた手を覚えてる。
歩調を合わせてくれること、笑うと目尻が下がること、自分を語るときの淋しそうな顔も。
全部、色鮮やかにあたしの中に残ってる。

憎らしいほどに、それは褪せることなく愛しい記憶のまま。
あたしをグチャグチャにする。

会った事さえ後悔させそうなほどに、好きになってしまった。
過去に戻れるなら、あの時あの瞬間に戻りたい。
そんな夢を見た。

「好きです……」

たとえ叶わないとしても、伝えたかった。
けど、それも出来ない。
言葉にしたら、きっと止められなくなる。
あたしは頑固で傲岸で、強欲だ。

でも、まだ止まれる。だから、今ここで止まらなくては。
溢れないように、気持ちに栓をして、そして笑うのだ。
悲しさが、愛しさが漏れないように。

だから、今だけ。
今だけは、この恋のために泣こう。
深くて、惨めな後悔のために泣くことを、自分に許してあげるのだ。

「っ……ふっ……」

湯気のこもった浴室に、自分の泣き声が反響する。
入浴剤を入れて乳白色になったお湯に、透明な雫がいくつも落ちる。
身体を包み込む沢山のお湯は、あたしを慰めるように、温かく寄り添った。

(08.08.10)




33.硝子
「いつもすまない」
「謝らないでください。慣れましたから……」

乱雑に並ぶシャーレを一つずつ丁寧に拭いてゆく。
曇りが消えたことを確認してケースに並べる。
蓋をして所定の位置においてから、水道の方へ向かう。

「片山には手伝ってもらってばかりで」
「……私が好きでやってるんですから、先生は気にしないでください」

実験後の理科室は、生徒たちが適当に置いた器具で見るも無残。
それを直し、後始末するのが、進路の決まってしまった私の放課後の日課だ。
流しに立つ先生は、腕まくりをして、ビーカーを洗っていた。

「だが、お前だってやりたいことがあるだろう?」
「……私は邪魔ですか?」

隣に並び、濡れた試験管を手に取る。
かけてあった布巾で拭いて、元の場所に戻した。
棘のある私の言葉に、先生の手が止まる。

「そんなことない。いつも助かってる」
「……なら、よかった」
「他の奴にも声かけたんだが手伝ってくれないんだ」

バキッ

持っていた試験管が真っ二つに割れた。
試験管を伝い、ポトッと血が垂れる。
その様子が現実離れしていて、私は身動きできない。

視界の端の黒い何かが、私の手をとった。
割れた試験管を危険物入れに放り投げ、私の手を舐める。
その動きに我に返った。

黒いのはスーツで、私の手を舐めるのは、先生の舌。
ドクン、ドクンと心臓が早くなる。

手のひらに触れる前髪がチクチクしてこそばゆい。
ねっとりと絡みつく舌の感触と、ひどく興奮させる命の匂い。
顔を上げた先生の口元には、舐め損ねた血がこびりついていた。

「……嫉妬したのか?」
「……はいって言ったら?」

倒れこむ私と反対に飛び散る赤い血が妙に綺麗だった。

(08.07.24)




34.白昼夢
「今日も人が多いですね」
「しょうがないです。休日ですから」
「……そうですね、急ぎましょうか」

先を歩くあなたの後ろを、置いていかれないように必死に歩く。
人だらけのこの街は、油断したらすぐにはぐれてしまう。
それだけは避けたかった。
必要以上に迷惑をかけたくなかったのだ。

「あっちです」
「あ、はい」

進行方向を示す手。
まっすぐに伸びて、もう一度下げられたそれを見て、思う。

手をつなぎたい。
前を歩くあなたの揺れる手を掴んで、あなたが傍にいるって確信したかった。

でも、もしかしたら拒絶されるかもしれない。
迷惑だって振り払われるかもしれない。
それがわたしは、とてつもなく怖い。

拒否されてしまったら、わたしの身体は細胞単位でボロボロに壊れてしまう。
この無防備な心に、いくつも再起不能な傷が出来るだろう。
そんなことになったら、わたしは生きていけない。

なのに――

「どうかしましたか?」
「え……」

さらりとさらわれる手。
温かくてゴツゴツしているのに触り心地がいいと、どこか他人事のように思った。

「人ごみですから、迷うでしょう? 少しの間、我慢です」
「……」

あぁ、泣きたい。
心がパンクしそうなほどにいっぱいで、もう何がなんだかわからない。
夢でもいい。ただ泣きたかった。
顔を伏せたわたしを気遣うように覗かれる顔。

「大丈夫ですか?」
「……えぇ、平気です」

自然と笑顔になるわたしに、あなたも微笑む。
その表情と、手の感触だけを覚えていようと、深く思った。

(08.08.08)