アネラ 1.絶対安全領域




「きょーちゃん!」

冷たいリノリウムの床をキュッキュッと鳴らし、足音が近づく。
その声の持ち主は、どう考えても一人しかおらず、俺はため息をつきながら振り返った。

「はな……ここでは先生って呼べって言ったろ?」
「あ……えへへ、忘れてた」

何度注意しても直らないその癖に、もう諦めかけているが、言わずにはいられない。
大体このシチュエーションがおかしかった。
どうしてわざわざ、俺の勤めている塾に、幼馴染が通っているのか。
まったく意味が分からない。

バツが悪そうに、はなはえへへと舌を出して笑う。
その仕草は、中三の女の子がするには幼いのに、はなには妙に似合った。

「今日も家行っていい?」
「……あぁ、来いよ」
「やったぁー。きょーちゃんのパスタ食べれる!」

バンザイを連発し、身体中で喜びを表現する幼馴染に、クスクスと笑いを零す。
今日の我が家のメニューは、強制的にパスタになりそうだ。
まぁ、俺も嫌いじゃないし、美味しそうに食べてくれるのだから悪い気はしない。

「今日って、例のディナーショーか?」
「うん、多分ね。お母さん、朝からはり切ってたし」

友人同士の俺たちの両親は、俺にはなの面倒をおしつけ、自分勝手に用事を入れる。
最近は、それにも慣れてきて、まったく逆らう気にならない。

というよりも、はなを一人の家に置いていく位だったら、俺が面倒を見ていた方がマシだと気づいたからだ。
一回、はなに留守番を頼んだことがあったが、あれはひどかった。
スパゲティを作ればラーメンが出来、洗い物をすれば食洗器が壊れた。

あれから俺も学習して、はなには包丁の一本も持たさないことにしている。
下手したら、コケた拍子に包丁が飛来して、誰かのわき腹にぐっさりというのもありえるからだ。
少なくとも俺はそんな被害に遭いたくない。
だから、どんなに面倒でも、他の連中にバレたら厄介でも、はなの面倒を見ている。

「はな、他の生徒に俺のこと言うなよ?」
「え……どうして?」
「どうしてって……」

言わないでも分かれ、この馬鹿娘。
仮にも塾の講師が生徒の一人を家に連れ込んでると知れたら、俺は解雇だ。
職を失ったらどうしてくれるなんて、はなに言っても無駄だろう。
別に幼馴染なんだからいいじゃんと軽々しく言い返されるに違いない。
大人の世界に、幼馴染なんて言い訳が通じるわけない。

何かを伝えることを諦めて、ため息をつく。
誰かに見られないように、身体の陰に隠して鍵を渡した。

「……もういい。先帰ってろ」
「はーい、先生」

行儀よくお辞儀をして、はなは去る。
呼ばれた『先生』という呼称に違和感を感じて、俺は首を傾げた。


* * *


「あのね、この前おばさんと話したんだけど」
「……おふくろが何だって?」

俺が調理している間、はながやった問題に丸をつけていく。
途中三ヶ所ほどスペリングミスを見つけ、内心落胆する。
はなに何度言っても、ケアレスミスが減らない。
いつも、ちゃんと見直してから提出と言っているのに、中々直らない。

「おばさんの料理が美味しいから、娘になりたかったって言ったの」
「あー。まなさん、不器用だもんな……」

はなの母親のまなさんは、はなによく似て不器用だ。
それに比べ、うちの母親は平均的な主婦より少し出来るくらいか。
まぁ、飯が不味かったことはないから、俺はそれで満足している。

最後に点数を書き込み、はなに手渡す。

「ほら、答案。問4のB間違ってるぞ」
「あ……ホントだ。うえー、苦手なところじゃん」
「お前、いっつも同じとこばっかり間違えるよな」

一息ついて、傍らのマグカップからホットウーロンを飲んだ。
俺の返した答案をじぃーと睨むはなは真剣で、問題文と答えから目を離さない。
他のこともそれくらい真面目に取り組めば出来ないことはなさそうなのに。
でも、料理だけはしないでくれると、俺の胃が助かるのだが。

「本番は、そこ落とすなよ」
「……わかってるよー」

私立の受験はたった1問が命取りになったりする。
ケアレスミスなんかで、不合格になったとおふくろに知れたら、俺が怒られる。
あんたの指導力不足よなんて幻聴が、今にも聞こえてきそうだ。

「それでね、おばさんなんて言ったと思う?」
「うーん、おふくろがね……」

過ぎたことはしょうがないと諦めたのだろう。
いそいそと答案を鞄に仕舞うはなを横目にマグカップに口をつけた。

「京大と結婚してくれたら、いくらでも作ってあげるわよだって」
「ぶっ……!?」

吸い込んだものを思いっきり吹いた。
言葉の意味が理解できず、目を白黒させる俺をよそに、はなは勢いよく立ち上がる。

「だから、はな。頑張るね!」

ご飯ありがとう。またねと言い残し、制服のスカートを翻して、はなは玄関の外に消えた。
それに時計を見ると、午後10時。
もうまなさんも帰ってきている時間だった。

「何をだよ……」

呆然と呟いた言葉に返るものはなく、むなしさを煽るだけだった。






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2008.12.07