アネラ 2.乙女の憂鬱




「……これから塾か。嫌だなー」

私の吐いた大きなため息が、放課後の教室に無造作に落ちた。
それは、ただでさえ憂鬱な気分を、さらに降下させる。
カタっという音と共に背後に現れた気配に振り向くと、頼れる良き親友がかばん片手に立っていた。

「塾がイヤだなんて珍しい。何かあったの?」
「……きょーちゃんに相手にされない」
「……いつものことじゃない」

美穂ちゃんの苦笑しながらの一言に拗ねる。
確かにいつものことなのかもしれないけど、そこまではっきりと言われると私だって落ち込む。
相手にされないどころか、分類的に女の子だってことにもきょーちゃんは気づいていなさそうだ。
私を『女』扱いしてほしいのに、いつまでも子ども扱いばかりされている。
それが不満でたまらない。

「うーん、そうなんだけどねー。ここまで脈がないとやる気も失せてくるって言うか」
「誰か紹介しようか?」
「……まだいい。きょーちゃんを好きでいたい」

気がついたら、私の世界はきょーちゃん一色だった。
いつから好きだったか分からないくらい、ずっときょーちゃんだけを見てきた。
これからだってそれは変わらない。
今さら諦めて、他の誰かと付き合うなんて、これっぽっちも考えられなかった。

「はなも、恋する女の子なんだね」
「……うん」

せめて、私がきょーちゃんのことを好きだって気づいてもらいたくて。
きょーちゃんに女として扱って欲しくて、必死に背伸びをしているのだ。
私が大人だって気づいたら、きょーちゃんも好きになってくれるかもしれない。
そんな淡い希望にすら賭けてみたくなる。

「なんか……計算高くなった」
「……どこが?」

にやりとしたり顔で笑う美穂ちゃんは、ひどく面白そうだ。
でも、『計算高い』といわれるようなことをした覚えがなくて、私は首を傾げた。

「今まで、家庭科で5以外取った事ないでしょ?」
「う……きょーちゃんには内緒にしてね?」

実は、スパゲッティも洗い物も、果てはかつら剥きまで出来たりする。
最近はまり始めたのは飾り切りで、いっそ将来は板前でも目指したらどうだと家庭科の先生にも言われた。
きっと先生は、私が家で料理の出来ない振りをしているなんて思わないに違いない。

「……肉まん一つで許そう」
「ありがとう」

上目遣いで頼んだ私のお願いに、美穂ちゃんは大きくため息を吐いて許してくれた。
この小さいようで大きな嘘を隠してくれるなら、肉まん一つぐらい安いものだ。

「でも、家族にまで料理できるの隠してて大変じゃない?」
「だって、お母さんとおばさんって仲良いんだもん。すぐバレちゃうよ」

社宅で家が隣同士の石田家と葉山家の奥様同士は、子供の私たちがびっくりするほど仲が良い。
ぽやぽやとしていてドジばかりの私のお母さんと、あっけらかんとしたきょーちゃんのお母さん。
一見気が合わなさそうな二人だけど、放っておくと勝手に二人で旅行に行ってしまうくらいに気が合うらしい。
お互いにどんな話も包み隠さず話しているそうだから、一時も油断は出来ない。
どこからきょーちゃんの耳に入るか分からないからだ。

そうなったら、今まで積み上げてきた『放っておけない、ドジで可愛い幼馴染』の像が壊れてしまう。
それだけは避けたかったから、未だに私は包丁ひとつろくに使えない女の子を演じている。

いつどこで誰が聞いてるとも限らない話を切り上げたくて、私は美穂ちゃんに話を振った。

「美穂ちゃんは……今はこの前会ったあの人と?」
「えーっと、30歳の商社マン? ずっと前に別れたよ」
「それって……最後まで20歳だって勘違いしたままだったんだ?」
「そうそう。ホントにアホなオッサンだったー。別れて正解だよー」

あの日の美穂ちゃんは、お化粧を濃い目にしたとはいえ、全然若く見えた。
最後まで20歳だと騙されたままだったなんて相手の商社マンも不憫だ。
結婚すら出来ない小娘に本気になった上で捨てられるなんて可哀想だと思う。
でも、騙された方が悪いなんて考えてしまうのだから、私も大概性格が悪い。

背後から聞こえたゴツンという音に、体ごと振り向く。
そこには不機嫌そうな待ち人がいて、私はその理由を考えて首を傾げる。
さっきの物を置くときにするような重たい音は、どうやら鞄のようだった。

「また……たんまり貢がせた上で捨てたのか?」
「えー、そんなことないよ。ほんの少しだってぇー」

心底嫌そうに質問した祥希くんに、媚びるように可愛い子ぶってみせる美穂ちゃん。
その目は『そんなの当たり前じゃない』と言外に告げていて、私もため息を吐かざるを得ない。
祥希くんもそんな気分になったのか、道端の害虫を見るような目で美穂ちゃんを睨む。

「……一回死んでこいよ、この売女」
「……ふふふ。そう言えば祥希って、この前女の子と腕組ん――」
「あーーーあーーー。きこえないっ!」

くすりと楽しそうに美穂ちゃんが微笑んで言った内容に、祥希くんが大声を上げる。
その大音量に鼓膜が麻痺して、私は目を白黒させた。

「祥希くん、何かあったの?」
「うん、それがね……」
「すみません、俺が悪かったです。金輪際余計なことは言いませんので、今回だけは許してください」
「……ふぅー。まぁ、許してあげよう。肉まん4つで」
「多っ!?」

私を蚊帳の外にして二人は落ち着く。
それを傍から聞きながら、時計を確認する。
5時30分。今から出れば、6時の講義に充分間に合う時間だ。

思い切り音を立てて椅子を引く。
それに気づいた二人が、急いで身支度をするのを横目で見ながら、教室のドアに向かった。
あとから二人が追いかけてくる足音がする。
それはやがて隣に並んで、私の服のすそを引いた。

「ねぇ、はな。葉山先生と二人でご飯って危ないんじゃない?」
「え……どうして?」
「いや、だってあっちはオ・ト・コよ。オトコ!」

今までそんなことを一言も言わなかったのに、今さら何を言っているのか。
数えるのが面倒くさくなるほど、きょーちゃんと二人でご飯を食べている。
男を強調して言われても、何が危ないのかイマイチよく分からない。

「それがどうかしたの?」
「あーーもうっ、なんて世間知らずなのかしらっ!」

訳が分からなくて首を傾げた私に、美穂ちゃんはじれったいのか地団太を踏んだ。
そんなことを言われても、何が世間知らずなのかが、やはり分からない。

「二人っきりになったら襲われちゃうかもしれないでしょ! 危ないったらありゃしない」
「……ありえないよ」

拳を掲げて力強く言われた言葉に、私は苦笑する。
二人っきりになったら襲われるなんて、私たちに限ってはありえない。

「だって、きょーちゃん。はなのこと、子供としか見てないもん」
「はな……」
「どれだけセクシーな格好できょーちゃんの部屋に行っても、相手になんかされてないし……」
「……」

胸元の開いた服でも、短いスカートでも、ショートパンツでもいつも反応は同じなのだ。
『あんまり冷やすと風邪引くぞ』の一言だけで、欲しい言葉はひとつもくれない。
どれだけ朴念仁なのだと憤っても、きっときょーちゃんには通じない。
そもそも私を女の子だと認識すらしていないのだ。
考えれば考えるほど、この恋は不毛だとしか思えない。

自分で言ったことが深く刺さって、じわじわと悲しくなる。
子ども扱いされていることに傷ついているなんて、本人は想像もしないに違いない。

突然、真横からガシッと肩を掴まれる。
その力の強さに驚くと、やけに真剣な顔をした祥希くんと目が合った。

「はな、それはやめておけ」
「……どうして?」
「お前には似合わない」

祥希くんがそう言ったと同時に、その後頭部に鋭い一発が決まる。
それに目を見開く。
背後で叩いた手首をクルクルと回す美穂ちゃんは至って涼しい顔だ。

「なにしやがんだっ! このアマっ!!」
「黙れ、クソガキ。はなに似合わないものなんてないに決まってるでしょ! あんたにはなの可愛さの何が分かるのよっ!」
「はぁっ!? お前みたいな尻軽女より、俺の方がよっぽどはなの可愛さを知ってる!」
「何ですってっ……!?」

そのまま私の頭上で言い争いが始まる。
学校の帰り道、制服を着た私たち三人に、通りすがりの人の視線が集まる。
それを恥ずかしいと思いつつも、私に二人を止める体力は残っていない。

「あー……うるさいなぁ」

棒読みで発した言葉に余計生気を奪われる。
私じゃない誰かが、この喧嘩を止めてくれればいいのに。
でも、止める人は現れないし、二人の争いは終わらない。
それに疲れて、歩くスピードを上げる。

私の可愛さをどちらがより知っているかなんて言い争いするだけ無駄だ。
二人に分かってもらっても、何にも嬉しくなかった。
私の可愛さを分かってくれればいいのは、この世界でただ一人。
でも、その当人は一向に分かってくれなくて。

これから講義で会うことを憂鬱に感じて、私はまたため息を吐いた。






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2009.01.02