アネラ 3.幼馴染略奪宣言




「先生、さよならー」
「おう、気をつけて帰れよー」

バタバタと廊下を駆けていく塾生たちに軽く手を振る。
やっと終わったと肩を叩いて振り返ると、そこには数人の女子生徒がいた。

「先生ってこの後ヒマ?」
「ヒマだったらお茶しようよ!」

腕を両側からガシっと掴まれ、身動きを取れなくされる。
彼女たちをそのままにして足早に講義室へ向かう。
そんな俺に諦めずついてくる生徒たちに苦笑した。

「いや、暇じゃないんだなーこれが」
「もしかして、彼女って奴?」
「えー先生。わたしたちのことは遊びだったんですか!」
「おい、待て」

冗談じゃ聞き流せないその言葉に俺は固まる。
仮にもここは職場の廊下で、彼女らはお客さま。
手なんて出すはずがないのに、遊びとは何だ。
彼女たちを傷つけないようにさりげなく拘束をはずし否定する。

「遊びも何も俺は塾生に手は出さないよ」
「先生って嘘つきだー」
「嘘吐くとろくな大人になれませんよー」

生徒たちの嘘つき呼ばわりに一人の知り合いを連想して、俺はいっそう苦笑いする。
そいつは自他とも認めるろくでもない大人で、正直自分でもなぜ友人などをやっているのかわからない。
自堕落で嘘つきで欲望に忠実。
彼女たちにそんな奴と一緒にされていると思うと鳥肌が立ちそうだ。

嫌悪感を顔に出さないように、きわめてにこやかに俺は聞いた。

「俺がいつ嘘吐いたって?」
「えー。だって、先生って石田さんにはすっごく優しいじゃないですかぁー」
「そうそう。石田さんが分からないところがあるといっつも授業止まるし」

一瞬、心臓が止まりそうになった。

はなをひいきしていないと言えば嘘になるが、それを誰かに察せられないように気をつけていたはずだ。
気づかれないよう細心の注意を払ってきた結果、他の講師にはまったく気づかれていない。
それを十年と少ししか生きていない中学生に察せられてしまうなんて不覚だった。

内心の動揺を押さえ込むため、ゆっくりと息をする。
視線を逸らさず、顔に笑みを貼り付けて、俺は口を開いた。

「まぁ、それはだな……進度の遅い生徒に合わせるのが俺のスタンスだからだよ」
「えー、じゃあそれって、全然授業進まないじゃないですか」
「石田さんばっかりずるいっ!」

俺の言い訳に納得できないのか、あからさまに不機嫌になる生徒たちに心底困った。

なんと言えば分かってくれるだろう。
何を話せば仕方ないねといってくれるだろう。

この年代の子たちは上辺だけの取り繕った言葉にすぐ気づく。
大人の都合で誤魔化した言葉に、どんどんと心を閉ざしていく。
自分にも覚えがあるだけに、適当なことを言うつもりにはなれなかった。

返答に悩む俺を観察するような視線。俺は慎重に言葉を選ぶ。

「お前らは得意かもしれないけど、石田はな、英語が苦手なんだ」
「わたし達だって得意ってわけじゃ……」
「うん、知ってるよ。だからまだ基礎をやってる。皆おろそかにしがちだからな」
「先生……」
「だから、石田だけが特別じゃない。まぁ、たまに進度が遅くなったりするけどそれも許してやってくれないか」

はなをひいきしている。
けれど、それはあくまで生徒としてだ。
英語の苦手な一生徒として彼女の進度に合わせているだけ。
俺は講師として全員がちゃんと志望校に合格できるよう指導しているだけだった。

「分かったよ……」
「先生にそこまで言われちゃったら、許すしかないじゃん」
「うん、ごめんなー」

多少機嫌が直ったのか、俺の言葉に生徒たちが苦笑する。
それにホッとして、俺は生徒の肩にポンと手を置いた。

「大丈夫だ。遅れた分は冬期講習でみっちり叩き込んでやるからな」
「先生、やっぱろくな大人じゃなーい!」
「ほら、話してる暇あったらさっさと帰る」
「はぁーい。先生、さよならー」

元気よく手を振ってパタパタと去っていく生徒の背中を見送る。
今度こそ終わったと思って、ロッカーへ向かう。

慣れないことをしたせいの疲労感。
酒か煙草が欲しいと思った。

「おい」
「……ん?」

階段を上りながら今日の晩飯のメニューを考えていると、どこかから声がする。
こんな時間にまだ生徒が残っているはずもない。
気のせいかと思って、またロッカーを目指す。

「おい、先生!」
「あ……澤田か。どうした? 何か相談か?」

背後から聞こえた大声に驚いて振り返ると、見下ろす先には俺の受け持った授業の生徒がいた。

名前は澤田祥希。はなと中学が同じで同学年。
成績は中の上。前回の模試では上から数えたほうが早かった。
俺と彼には講師と生徒という以外、何の接点もないはずなのにどうかしたのだろうか。

「何が塾生に手は出さないよ、だ……。お前、立派に手ぇ出してんじゃねえか!」
「澤田……?」
「はなだって塾生だってこと忘れてんじゃねえだろうな?」

話題に突然はなが出てきたことに目を見開く。

手を出すとか出さないとか、今日はどうしてこの手の話題ばかりなのか。
何かに呪われているとしか思えない。

澤田が何を勘違いしているのか知らないが、とりえあず俺は弁解にまわる。

「何言ってるんだ、澤田? 俺と石田は何でもないぞ?」
「嘘つき野郎。お前ら、幼馴染なんだろ?」
「あ……そうか。君ははなの……」

そういえば、中学に入って仲のいい男子が出来た話をまなさん経由で聞いたことがある。
今の今まですっかり忘れていたが、彼がそうなのだろう。
俺たちが幼馴染だと知っているのだから、これ以上教師然とする必要はない。

俺が肩の力を抜くと同時に、澤田が階段を上る。
踊り場に立つ俺と同じところまで上ってきても、身長は俺の方が上だった。
それに気づいたのか舌打ちをする澤田に、俺は苦笑しながら言った。

「それにしたって、俺たちに幼馴染以上の関係はないぞ?」
「……それなら、誰がはなの彼氏になっても、お前には関係ないよな」
「は……?」

予想していなかったその言葉に、俺は固まる。
意図が分からなかったことが伝わったのだろう、澤田が苛立った様子で続ける。

「俺がはなの彼氏になっても、邪魔すんなつってんだよ」
「……はなのことが好きなのか?」
「あぁ、好きだ。彼女にしたいと思ってる」

その言葉は、少しだけ衝撃的だった。
俺が中学生だった頃は、恋なんてものに現を抜かすことなく受験勉強にまっしぐらだった。
彼女を作るなんて夢のまた夢で、彼女のいる先輩たちを見てはうらやましく思ったものだ。

それに、はなを好きという男が現れるなんて思っても見なかった。
なんたって俺は、はなが生まれた当初から知っているのだ。
乳離れもハイハイしてたころも七五三だって知っている。

まだ子供だと思っていたのだ。
まだ恋も知らない子供だと思い込んでいたのだ。

もしかしたら。もしかしたら、はなも誰か好きな男がいるんじゃないか。
今、やっと思い至る。

「だから、手出すなよ。あいつは俺んだからな」
「……」

言い捨てられたそれに、俺は返す言葉を持たない。
今は何も考えたくなかった。






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2011.01.23