アネラ 6.焼餅不機嫌娘




「58点」
「……」

塾が終わって帰ってきた自室で俺はため息をつく。
目の前には同じく塾帰りのはな。
こたつの上に並んだ答案用紙を親の敵のごとく睨んでいた。

どれも点数がイマイチなそれは、このまえやった合格判定模試。
50点以下はないものの、受験をすぐに控えた中学生の取る点じゃない。
特に俺の教える英語の点数は群を抜いて悪かった。

「俺の言いたいことは分かるよな?」
「……もっと勉強しろって言いたいんでしょ?」

説教をされているからか、はなの機嫌は悪い。
口角を下げ拗ねている様子を見て、拗ねて投げ出してしまいたいのは俺のほうだと思った。

「はな、受験まであとふた月しかないんだ、自覚あるのか?」
「……言われなくても」
「なら、この点じゃ無理だって分かるだろ?」

はなの志望する私立成城高校は、いまのはなのレベルでは届かない。
全ての教科をせめて10点、英語は15点以上上げないと合格できないだろう。
いまの点数のままなら、担当講師としては受験することも考えなおしてほしいくらいだ。

俺の指摘にますますへそを曲げたのか、はなは下を向いたままさらに口を尖らせた。
さっきから俺のことなど少しも見ない。

「……きょーちゃんの教え方が悪いんだよ」
「お前な……」
「最近、なんかきょーちゃん冷たいし」

湯飲みを抱え目をそらしはなはぼやく。
その内容の幼稚さに俺は内心またため息をついた。

「だから、勉強しないで拗ねてんのか?」
「……そういうわけじゃないもん」
「じゃあどうして勉強しない?」
「……私が勉強しようと勉強しなかろうときょーちゃんには関係ないでしょ!」

俺の質問に、はなの語気が荒くなる。
はなはそう言うが、俺は仮にもはなを教える立場だ。
関係ないわけがない。

でも、それを言ったらはなはますます怒るだろう。
扱いにくいことこの上ない。正直言うと少し面倒だ。

けれど、そんなことは言ってられない。
まなさん直々に、はなの勉強を見てくれと頼まれているのだ。
昔からまなさんにはお世話になっている。
途中放棄するわけにはいかなかった。

「まなさんが心配してんだよ。お前が全然勉強しないって」
「……きょーちゃんはいつもそうだよね」
「何がだ?」

はなはスプーンを手に取り、お茶請けにだした信玄餅のきなこをぐちゃぐちゃと混ぜる。
俺がまなさんの名前を出したことが気に障ったらしい。
その手付きはひどく乱暴だ。

「きょーちゃんが心配してるわけじゃないよね、お母さんが心配してるから私に構うんでしょ?」
「そういうわけじゃ……」
「塾が終わったあとのこれもそう、お母さんに言われたからはじめたんでしょ?」

憮然とした表情のはなに思い至る。
はながへそを曲げている原因は、最近はじめた課外授業のことだったらしい。

まなさんに頼まれたそれは、塾の終わった夜に俺の部屋で始まる。
ワンツーマンで数時間勉強したあと、報酬であるまなさんの手料理をいただくのだ。
料理が下手なまなさんだが味はまずまずで、食費が浮くのもあって俺としては助かっている。

はなはそれが気に食わないのだろうが、頼まれた以上、はなの成績をあげるのは俺の使命だ。
そのためにはこの不機嫌娘をどうにかしなければいけない。
いつまでもへそを曲げていてもらっては困るのだ。

俺ははなの機嫌を直してもらうため、できるだけ優しい笑顔を作った。

「きっかけはそうだったかもしれないけど、いまはお前のことを心配して」
「……嘘。信用できない」
「はな……」
「お母さんには私から話す。もうきょーちゃんからは習わないよ」

女の勘ってやつだろうか、俺の嘘を簡単に見破るはなに内心舌を巻く。
機嫌を直してもらうどころか、いまは下手な嘘を言うと逆効果のようだった。

黒蜜をたらし、串で餅を刺し、はなはそれを頬張った。
それを見て、妙に甘いものが食べたくなる。
はなの態度にイライラしているからかもしれない。

俺も目の前あった信玄餅の包みを開けた。

「やだ。もうきょーちゃんには習わない。祥希くんに教えてもらうもん」
「……あいつだって受験生だろ」
「でも、きっときょーちゃんよりずっと親身に優しく教えてくれるよ」
「あぁ、そうかよ」

はなの物言いにカチンときた。
俺も親身に優しく教えてるつもりだったのに、はなはそうは思わなかったようだ。

しかもよりにもよって、はなに好意を寄せる澤田に教えてもらうときた。
はなはあいつがはなのことを好きだと知らないのかもしれないが、それにしても警戒心というものがない。
いつ他の男につけこまれるかもしれないと思うと、腹が立った。

「なら澤田に習えばいいだろ」
「……きょーちゃんの朴念仁」
「……俺がいつ分からず屋だったよ」

俺の吐き捨てた言葉に、はなは恨めしそうな顔で餅を食べる手を止めた。
落ち込んだその様子を無視して俺は糖分を摂取する。
気分屋ではすまない、はなの浮き沈みにいちいち付き合っていたらこっちが消耗してしまう。
意図的にシカトする俺に気づいたのか、はなはまた唇を尖らせた。

「……きょーちゃんの馬鹿」
「……はぁー。お前はガキか」

俺が呆れて言うと、はなが思い切りこたつを叩いた。
こたつの上の湯のみが左右に揺れ、その中身をこぼす。

「はな、子供なんかじゃないもん!」
「……へぇ、どこが?」

ガキという言葉がはなの琴線に触れたらしい。
はなを傷つけたかもしれないが、俺には撤回するつもりはなかった。
俺の持つあの写真の頃に比べたら、少しは大人になったかもしれない。
けれど、癇癪をおこして、物に当たるようじゃまだ子供だった。

「いつまで私のこと子ども扱いするの!」
「……そうやって駄々こねるところが子供だって言ってるんだ」
「っ……!」

俺の指摘に思い当たるところがあったのだろう、はなは悔しそうな顔をした。
そして、黙ったまま、湯飲みに手を伸ばした。
怒鳴ったから喉が渇いたのかもしれない。

はなの動作につられて、俺も煎茶を飲んだ。
きなこまみれで気持ち悪かった口内がさっぱりすると、少しイライラも収まる。

「きょーちゃんなんて嫌い」
「……はいはい」

茶を飲んで落ち着いたからか、はなの言葉を受け流すことも余裕だった。

とりあえずいまは喧嘩をしている場合じゃない。
一分一秒でも長く勉強するべきだ。
言い争いしている時間も無駄にはできない。

「ほら、休憩は終わりだ。間違えたところやりなおすぞ」
「……きょーちゃんのそういうところが嫌い」

いまの会話からどうして嫌いなんて言われなければいけないのか。
はなの真意が分からなかった。

幼馴染で、生まれてからずっと見ていたはずなのに、最近は特に何を考えているのか分からない。
15年間一緒にいて、こんなことは初めてだ。
澤田に牽制されたときにも思ったが、はなに関して俺は知らないことが多すぎるんじゃないだろうか。
はなのことは俺が一番知っていると思ってたけれど、それはもしかしたら違うのかもしれない。

現にいま、いくら考えてもはなに嫌いと言われる理由が分からない。
少なくともはなは、幼馴染として俺のことを好いているはずだ。
好いていなければおかしいくらい、俺に懐いていると思っている。
けれど、それはポーズで本当は俺のことは嫌いなのかもしれない。

はなにいわれた一言で不安が広がる。
嫌われていないと断言できない自分が嫌だった。

「いっつもいっつもどうして私の話を最後まで聞いてくれないの?」
「……はな」
「私は、私は……きょーちゃんのことが好きだよ」

はなはそう言って泣き出す。
その口から出た言葉に俺は安堵する。
嫌われているかもしれないと不安になったが違うのならよかった。
さっきのは言葉のあやだったのだ。

こたつから身を乗り出して、涙するはなの目元をぬぐう。
顔を上げ期待を目に浮かべるはなに、俺はなるべく優しく微笑んだ。

「……嫌いなんて嘘。きょーちゃんのことが好きなの……」
「俺もはなのことが好きだよ」
「……っ、そういう意味じゃないって知ってるでしょ!!」

はなの表情に答えを間違ったことを知る。
こういう返答を期待していたんじゃなかったのか。
ますますはなが分からない。

泣きながら眉を歪めたはなは、俺の胸元に手を伸ばした。
シャツを掴まれ勢いよく引っ張られる。
予測できなかったそれに俺はされるがまま。

唇にあたる衝撃。やわらかいもの。
その正体に思い至ってすぐ、俺ははなを突き飛ばした。

「お前……」
「……こういう意味で好きなの」

突き飛ばされたはなは、崩れた体勢からすぐに俺に向き直る。
潤んだ瞳に俺は初めてはなを怖いと思った。

「私はきょーちゃんを男の人として好きなんだよ」
「はな……」

もしかしたら、はなも恋をして、彼氏を紹介してくるんじゃないかと。
はなも誰か好きな男がいるんじゃないかと思っていた。
けれど、それが自分だなんて予想してなかった。
はなからしたら俺はオッサンで、恋愛対象外であると思い込んでいたのだ。

俺はどうして気がつかなかったのだろう。
考えてみれば兆候はいくらでもあった。
俺に彼女が出来ると不機嫌になったり、突然泣いたり。
それは好きのサインだったんじゃないのか。

鈍感すぎる自分に少し絶望する。
俺を見るはなの真摯な表情に、どう返答していいか迷った。

「きょーちゃん」
「……はなのそれは本当に恋なのか?」
「え……?」

俺を本当に男として好いているのだろうか。
ただ単にひな鳥の刷り込みのように、俺が一番近くにいたから好きだと思ったんじゃないだろうか。
疑う俺の視線にはなはまた泣きそうに見えた。

「憧れとかを恋だと勘違いしてるんじゃないのか?」
「……私だってそこまで子供じゃないよ。真剣にきょーちゃんのことが好きなのにっ!」
「お、おいっ!」

立ち上がりはなはまた俺の胸元に手をかけた。
さっきみたいに引っ張られてはたまらない。
はなの手を掴むと、強く握りすぎたのだろう、はなは顔をしかめる。

けれどはなの力は弱まらず、今度は俺の胸に体重をかけて押した。
予測していた方向と反対側に力が加わったことで、俺はまたされるがままに倒れる。
馬乗りになったはなに唇を奪われる。
合わせるだけの拙い仕草に俺の理性の紐が切れた。

軽いはなの身体を持ち上げ、くるりと体勢を変え、はなの唇を自分のそれで優しく挟み込む。
受身だった俺が突然動いたことに動揺したのか、唇を離そうとするはなの頭に手を伸ばしキスを深くした。
唇の隙間から舌をいれるが、はなが歯を食いしばっていてそれ以上は進めなかった。

あくまで抵抗するはなに、歯茎を丁寧になぞる。
それに震えるはなの初々しい仕草に、俺は口内で笑った。
緩んだ歯列の間から侵入し、逃げ惑う舌を絡め、上あごをなぞる。
時折鼻から抜ける声に俺は喜びを抑えきれない。

好き放題に蹂躙し気が済んだ頃には、はなは少しも抵抗しなくなった。
見下ろすはなは目の端からポロポロと涙をこぼす。

「はな……」
「……ひどい」

唇を離すとはなは放心状態でポツリと言った。
その言葉の意味がわからず首を傾げる俺に、さめざめと泣き続ける。

「きょーちゃんは私のこと好きじゃないでしょ?」
「……そんなことない」

はなの質問に俺はどちらとも言えない答えを返す。

好きか嫌いかで言うなら好きだろう。
けれど、女として好きかときかれると困る。今までそういう目で見てこなかったのだ。
突然女として見ろといわれても戸惑いしか感じない。
俺の中で定まっていない気持ちを、正直に伝えていいのだろうか。

顔を覆うはなの喉から嗚咽が漏れる。
さっきとは違うはなの泣き方に俺はオロオロしながらはなの上から退いた。
最近、俺ははなを泣かせてばっかりだ。

「はな、ごめん。そんなに嫌だったか?」
「……謝るくらいなら最初からしないで」
「そうだな、ごめん」

身体を起こし乱れていた衣服を整え、はなは涙をぬぐう。
泣きすぎたからか目の腫れているはなにティッシュケースを差し出すと、受け取りそれで手と唇を拭いた。
そのはなの行動に少し傷つく。

「きょーちゃんはずるいよ。いつも肝心なことは言ってくれない」
「……」
「私のこと好きじゃないのに、大人のキスなんかしないでよ!」

答えられない俺に、言葉と共にティッシュケースが飛んでくる。
避けられずにモロに顔面に食らう俺を無視して、はなは立ち上がりコートと鞄を手に取った。
ちらりと見た横顔には、新たな涙の軌跡があった。

「きょーちゃんの馬鹿! 大っ嫌い!!」
「おいっ、はなっ!」

慌しくはなの出て行ったドアがバタンと大きな音を立てて閉まる。
はなの最後の捨て台詞とぶつかったところが痛む顔に、俺はしばらく身動きができなかった。






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2011.04.22