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リリム 5.謝罪と落胆




「君が来てくれるとは思わなかった」

グラスにシャンパンが注がれ終わったタイミングで僕は口を開いた。
会釈を残してウエイターが去ったのを横目で見て、松山はポツリと不満そうにこぼす。

「……自分が誘ったんじゃないですか」
「うん、……久しぶり」

あれから彼女は僕の研究室に顔を出さなくなった。
僕のいない時間や図書館には来ていたようだけど、どうやらあまり大学に来なかったらしい。

ただでさえ夏季休業中だったのに加え、僕もちょうどその頃から目が回るほど忙しくなった。
教授のサポート、成績表に、後期の履修登録、たまにやってくる院生の相談に乗ったりと、いつのまにか彼女のことを考える暇がなくなった。

そしてもう、季節はすっかり秋だ。
後期の授業も始まり、あとひと月もしないうちに学園祭になるだろう。

意識的に考えないようにしていた松山も、夏季休業が開け、講義も研究室にも出るようになった。
歓迎するべきことなのに、僕はその事実にがっかりしていた。

ただ忙しかったから来なかっただけなのかもしれない。
気にしていたのは僕だけなのかも。
彼女にとってはただのお遊びで、きまぐれを起こしただけなのかもしれない。

その証拠に、目の前にいる松山はいつも通りだ。夏になる前となんらかわらず僕の前。
悔しかった。

「えぇ、お久しぶりですね、助教授」

沈む僕を知ってか、知らずか、彼女はふと笑った。
それがあんまりにも綺麗で似合う笑みだったから、僕は一瞬呼吸を忘れた。
いつもそういう顔をしていればいいのにと、一番僕が怒らせているくせに思った。

「うん、きてくれてありがとう」
「それにしても、あんなまどろっこしい誘い方、金輪際やめてくださいね」
「……仕方ないじゃないか。僕は君のメルアドとか知らないんだから」

彼女の掲げたシャンパングラスに触れ合わない距離での乾杯。
こくりと飲み込んだ喉からもれる小言に、思わず拗ねた声が出る。

これまで、学生の個人情報なんて必要性を感じてなかった。
だから、松山の電話番号もメルアドも知らなかった。
それを聞ける相手もいなかったから、とても古典的な方法で連絡を取った。

本の間にメモを挟むという目新しさのない誘い方。自分がやるとは思ってもみなかった。
先人たちの知識は偉大だ。
そのおかげでこうやってデートができるのだから捨てたもんじゃない。

ウエイターがするりとテーブルにやってきて、会話がとまる。
手にはアンティパスト。色とりどりに飾られた皿に松山の目が輝く。
美味しいものが好きな所は平均的な女子となんら変わらないらしい。可愛いかった。

いそいそと自分の皿にとりわけながら、また口を開く。

「教えてないですからね。……でも、いくらでも連絡のとりようがあるでしょう」
「そういう特権を振りかざすのやだ。ただでさえ……」

その続きは言葉にならなかった。
形にしてしまったら、現実になりそうで躊躇う。

『教師』を理由に教えてもらってもいない連絡先を手に入れるなんて卑怯すぎる。
好かれたいと思っているのに、嫌われると分かっていることをする気になんてならない。
第一ああいったものは努力の末に手に入れた方が何倍も楽しい。

僕の言葉に少し眉を上げて、松山は皿に乗ったホタテにフォークを刺した。
ホタテときのこのソテー。バルサミコ酢の匂いが漂うそれを口に運ぶ。
パクリと含み、咀嚼し、飲み込めば、その顔に笑みが広がる。

この店を選んでよかった。
他の料理の味も保証できるし、酒も美味い。

美味しいもので少し彼女の心が解れたのを見て、僕は本題を切り出した。

「この前は申し訳ないことをした」
「……」

シャンパングラスを傾け、松山は静かに僕の謝罪を聞いていた。
その何とも思っていなさそうな無表情に、僕はまた言葉を紡ぐ。

「あんなことして許してくれるとは思わないが」
「いいですよ……慣れてますから」

彼女の淡々とした言葉に詰まる。

慣れているとかそういう問題じゃなくて、僕の行動のせいで不快にさせてしまったのだから謝るべきだ。
けれど、その謝罪ですら、そっけない言葉でしりぞけられてしまう。

未遂だったけれど、彼女が許せば丸々といただくつもりだったのだ。
あの日の言葉通り、僕はもうその他大勢、有象無象の一人にされてしまったのかもしれない。
それもこれも一時の衝動に任せた軽率な行動のせいだった。

手をつけられない皿の上、食事が冷えていく。
けれど、それを食べる気にはなれなかった。

「すまない」
「……あざといですね、助教授」
「え?」

知らない間にうつむき加減になっていた顔をゆっくりと上げる。
目があった先、松山は静かに怒っていた。

「他の女性は、そうやって謝ればどれだけ無体な行為でも許してくれましたか?」
「それは……」
「いいと言っているのにいつまでも謝る、それで許されると思ってる。浅ましい」

松山のゆっくりとした非難に、僕は続けるつもりだった言葉を諦めた。

謝れば許してくれて、元通りに戻れると思っていた。
それでまた、松山に優しくしてはもらえなくても、二人で楽しく過ごせると思ってた。
自分に都合のいいことだけを妄想して、彼女の気持ちを考えてなかった。
彼女の言うとおりだった。

ぐうの音も出ない僕を松山は睨んだ。
さっきまで静かに食事をしていた松山。
ナイフの音を荒っぽく立てる様子に、彼女の怒りが本物だと知った。

「それ以上謝罪を口にするなら帰ります」
「……わかったよ、でも」
「いまは食事中ですよ。楽しい話をしてください」
「ご……そうだね、君の言うとおりだ」

つい謝罪をしそうになった口をつぐむ。
僕を睨んでた松山の雰囲気が少し和らいだ気がした。

それにホッとしたのも束の間、話題に悩む。
楽しい話。彼女が楽しいって思う話しって何だろう。
好きだと思いつつも、こういうところのリサーチが弱かった。

沈黙に耐え切れなくなりそうで、とりあえず今できる話をするしかなかった。

「修士論文進んでる?」
「……それが助教授の楽しい話ですか?」

フォークが止まり、松山がため息をついた。

失敗。
他の女の前ならどれだけでも話題が思いつくのに、彼女の前ではそうはならない。
多分、他の女は自分のことを僕に知ってほしくて色々と話してくれるのに対し、松山は僕には何も話さないからだろう。

研究室のメンバーと話しているのを小耳に挟む程度で、僕らが雑談を直接交わすことなんてなかった。
第一、いつも彼女は怒ってばかりで、たわいのない話ができるとは思ってもみなかったのだ。
そう思うとなんて進歩だろう。
松山には嫌われてしまったかもしれないが、あの頃よりだいぶマシになっている。

混乱していた頭がだんだんと整理されていき、僕は『いつも通り』を思いだしてきた。

「でも、ほら、担当教諭と学生の共通の話題ってそれぐらいしかないじゃない」
「中間発表聞いてたでしょう?」
「……松山綺麗だなーってことは覚えてるけど」
「他の院、入りなおしていいですか」
「駄目」

呆れる様子の松山に、今日始めてフォークを持つ。
すっかり冷めてしまった皿に手をつければ、今日もちゃんと美味しい。
それだけで気分が上がる。

前には松山、皿にはお気に入りの店の料理。
シャンパンで喉を潤せば、口が軽くなるのが分かる。

「他の院になんか行っちゃ駄目だ」
「どうしてですか」

空になったグラスにシャンパンを注ごうとすると、すかさずウエイターがやってくる。
満たされていく杯。
もう一度、口に含めば、心が決まる。

「僕が一番君を評価してあげられる。知ってるだろう?」
「知ってますけど……色眼鏡かなって」
「……いくら僕が色ボケだからって成績には影響しないよ」

彼女の評価は院の中でもトップクラスだ。
けれどそれは、僕が色をつけているからじゃない。

松山は努力家だ。探究心も強いし、頭も切れる。
学部生の頃から見ていた。ほとんど『秀』は、正しい実力だ。

苦笑しながら僕は聞いた。

「そんな男だと思うかい?」
「はい」
「即答は傷つくなー」

普段の女ぐせの悪い僕を見ていれば、そう思われても仕方ないかもしれない。
疑われるようなことをしている僕が悪いだろう。
でも、今回は疑われたくなかった。

彼女に僕の評価を信じて欲しくて、悪戯を思いつく。
思わず緩む顔に、松山が警戒したのが分かった。

「君はもっと自信を持ったほうがいいよ」
「自信?」
「そう。僕が学生を褒めるのは珍しい」

どれだけ褒めても所詮は学生。僕ら教師を越えることはない。
けれど、松山はそういう意味でとても楽しみな学生だった。
これから何を為すのか、なせないのか、行く末に興味がある。

いつか僕を越える日もあるかもしれない。
そんな日が来たらきっと面白い。

にっこりと笑うと、松山は目を逸らす。
持っていたグラスの中、シャンパンが少し震えていた。

「教授ってやっぱりあざとい」
「惚れちゃった?」
「……」

僕の言葉に、松山はグラスをくいっと傾けて誤魔化す。

容姿だとかそういうことで褒められるのは慣れているだろう。
そんなものには、少しもインパクトはない。

彼女が褒められて嬉しいこと。
彼女について何にも知らない僕は、それだけは知っていた。

松山は勉強が好きだ。
古今東西の知識。昔の文学。
解けることのない数式は、彼女にとっては甘いお菓子。
飽くなき好奇心で貪欲に求めているのを知っている。

いまはたまたま僕の領域に興味があるだけなのもわかっていた。
その興味ある分野の先人である僕に、褒められるのは何よりも彼女の自尊心をくすぐるだろう。

褒められるのが苦手な松山。
長い髪の毛の隙間、耳が赤い。
落ちたかなと思った。

「僕は格好いいしね。惚れるのも分かるよ」
「……そうですね」

持ち直したのか、黙り込んでいた松山が肯定する。
その耳はまだ赤くて、僕はしてやったりと内心ほくそ笑んだ。

「教授は格好いいですよ。私が出会った男の中では5番目くらいかな」
「……それは意外と高順位なのを喜べばいいのかい? それとも僕レベルで5番目なのを悲しめばいいのか?」
「さぁ?」

珍しく肯定すると思ったらこれか。
期待しただけにがっかりさせられる。
顔には自信があったんだけど、経験豊富な松山からみたら大したことはないのだろう。
僕よりイケメンなんてそうそういないのにどうやって知り合ったのか。少し悔しい。

「格好いい男は嫌い?」
「……好みじゃないんです」

松山の否定に僕の思考が停止する。
好みじゃない。
そんな僕の全てを打ち消すようなことを言われたら立ち直れない。
動揺する心を隠すべく、なるべく平然と聞こえるように言った。

「だったら、どういう男が好みなんだい?」
「私、格好良いだけで中身のない男が嫌いで」
「……それは僕のことかな?」
「そんなこと言ってないですよ?」

質問に答えない松山は、なおも僕への口撃をやめない。

遠回し、いやかなり直接的に嫌いだと言われた。
格好いいだけで中身がないって思われているらしい。

多分本心じゃないだろう。本心でないといい。
調子に乗って、からかいすぎから仕返しされたのかもしれない。
彼女のせいでボロボロ。僕は満身創痍だった。

だから、馬鹿なことも聞きたくもなる。

「じゃあどうして、嫌いな僕に付き合ってくれるんだ?」

そのときの、松山の笑みを僕は生涯忘れることはないだろう。
無邪気に、けれど残酷に、そう子供みたいに笑った。
楽しげに目を輝かせて口元がほどける。

「暇つぶしですよ。……あと、点数稼ぎかな」
「……君は悪女だね、松山」

あぁ、本当君は嫌な女だ。

そういうことを隠しもしないのは、とりつくろう必要がないから。
僕なんて眼中にもないということだ。
気遣いをしなくてもいい相手。良い意味じゃない。

そのことに落胆している僕がいて。
落ちたのは、もしかしたら彼女じゃないのかもしれないと思った。







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2012.09.23