日陰の白百合 3




バタンと、夜中にするには耳障りな音で目が覚める。
寝ぼけ眼でベットから起き上がると、廊下の向こう、洗面所のほうから水音が響いていた。
どうやら百合亜が帰ってきたらしい。

時計を見ると、午前二時。丑三つ時だった。
今日もまた誰かに抱かれてきたのだろう。
帰ってきてすぐに風呂に入るときの百合亜は、ひどくこもった臭いがすることを経験上知っていた。

起きてしまったのだから仕方がないと、台所へ足を向ける。
棚から出したミルクパンにミルクを注ぐ。
適量を入れたそれを火にかけ、マグカップを二つ用意する。

食品を保存しているところから蜂蜜の瓶を出す。
スプーンで掬い、ミルクパンに落とす。
くるくると円を描いて落下していく蜂蜜を、何をするでもなく見ていた。

次第にふつふつと泡を作り始めたミルクをスプーンでかき混ぜ、火を止める。
並べておいたマグカップに、蜂蜜入りホットミルクを注ぐ。
疲れて帰ってきた百合亜は、これがかなり好きだった。

そろそろ風呂から出てくる頃だろう。
リビングのテーブルに、マグカップを置いて、私は廊下に続くドアを開けた。
シャワーの音が断続的に聞こえる風呂場からは、ぶつぶつと百合亜の独り言が聞こえた。
普段なら気にも留めないいつものことに、今日は何だか嫌な予感がした。

トントンと風呂場のドアをノックする。
それに返事がないのを確認し、今度は強くドアをノックする。
私の存在に気づかないのか独り言は止まらない。

これは緊急事態だろうと、許可を取らず風呂場のドアを開けた。
外に逃げる蒸気で一瞬前が見えなくなる。

それが収まったとき、そこには虚ろな目でひたすらに身体を洗う百合亜がいた。
ゴシゴシと強くこすったのか、不健康そうな白い肌は赤くなって、所々引っかき傷が出来ている。
止めなければと思っても、身体が動かなかった。

「……百合亜、何やって」
「汚いの。私、汚いのよ。だから、洗わなきゃ。汚れが落ちないの」
「百合亜っ!!」

濡れるのも構わず、私は百合亜に抱きついた。
そんな私に目もくれず、一心不乱に百合亜は身体を洗う。
握り締めたナイロンのタオルは、百合亜の身体を往復するたび、彼女の身体を傷つけた。

「やめて、百合亜。やめてよ、汚くないからっ」
「私、汚いの。汚い、汚いっ、汚いっ、キタナイ!!」
「落ち着いて、お願いだから、ねぇ落ち着いてよっ」

錯乱して暴れる百合亜を、身体を使って押さえ込む。
そうしている内に、百合亜の身体についた不自然な痕に気づいた。
その痕は、まるで思いっきり力を入れたように鬱血して、手首と足首と肩、そして首にあった。

それに感づいて、私は百合亜の足を思いっきり開いた。
私のその行動にさらに錯乱する百合亜に申し訳ないと思いつつも、自分の全体重をかける。
そして、案の定出血しているそこに、目の前が真っ暗になった。

殺してやりたいと、こんなにも思ったのは初めてだ。
しくしくと泣きながら、「やめて。もうやめて、痛い、痛いよ」と呟く百合亜の身体を抱きしめる。

「ごめん、百合亜。ごめんねっ」
「……笑実?」

幼子のように弱々しく呟かれた私の名前に、何だか泣きたくなる。
どうして私は止めなかったのだろう。
もしかしたら、こんなことが起こるかもしれないって、予想していたはずなのに。

「笑実、笑実、笑実っ!」
「うん、ごめんね。ホントごめんね、百合亜……」

母を求める子供のように、何度も私の名前を呟く百合亜の長い髪の毛を撫でる。
殴られたのだろう顔に出来たアザに、私も一緒になって泣いた。
お互いに抱き合って、ずっと風呂場に座り込んでいた。

けれど、百合亜がくしゅんとくしゃみをしたことで、私は立ち上がる。
こんなびしょ濡れのままでいたら、お互いに風邪を引く。

「ほら、百合亜。立って」
「うん……」

洗面所から新しいバスタオルを出して、彼女の身体にかける。
びしょびしょに濡れた自分の寝巻きを洗濯機に入れ、私も新しいバスタオルに包まった。
そして、そのまま寝室に向かい、彼女の着替えと自分の着替えを出す。

洗面所でおとなしく待っていた百合亜に着替えを渡した。
それをいそいそと着込む百合亜を横目に私も着替える。

細い首を彩る綺麗な鎖骨。それに続くなだらかな隆起にすっぽりと被さる繊細な下着。
無駄な肉のついていない腹回りを沢山のレースが飾る。
長い髪の毛と白い肌のコントラストが、目に毒だった。

ごくりと喉が鳴るのが分かる。
こんなにも傷ついている彼女に欲情しているだなんて、私はなんて淫乱なのだろう。

「百合亜、さっさと着替えて」
「ねぇ、笑実」
「ん、何?」

これ以上見ていたらきっと襲いかねない。
そう思って、着替えを急かした私に百合亜は不安そうに話しかける。
その顔に、私は優しく微笑んだ。

「私、汚い?」
「え……」

突然の質問にとっさに反応できなかった私に、百合亜は傷ついた顔をする。
それにしまったと思った。

「やっぱり私、汚いんだ……」
「そんなことっ」
「そう、私、汚いのね……」

視線を落とし、百合亜はポロポロと涙する。
泣いている百合亜を慰めたくて、私が一歩距離をつめると、百合亜はその分私から遠ざかった。

「百合亜?」
「……私も、好きだったよ」

過去形の告白に、私はまた百合亜に近づく。
そんな私に百合亜は柔らかく微笑んだ。

「ごめんね、笑実」
「……百合亜っ!?」

目の前に立っていた私を突き飛ばし、百合亜は洗面所から飛び出した。
転んだ身体をすぐに起き上がらせ、私はその後を追いかける。
廊下に続く玄関。開けっ放しのドアには誰もいなくて、私はそのままへたり込む。

どうやら腰が抜けたらしかった。
玄関には、いつも百合亜が履いている靴があって、靴も履かずに出て行ったのかと思った。

言う事を聞かない身体を引きずり、何とか電話機の元へたどり着く。
百十番にかけた電話はすぐに繋がった。
私はそこに縋りつくしかなかった。






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2009.01.26