秋の菖蒲(あやめ) 銀座編<1>




会社帰り。
菖蒲と初めて会ったあの日のようには、今日の仕事は終わらなかった。
時刻は夜十時。煌びやかな銀座のネオンは、残業上がりの疲れた頭には目に毒だった。

「あー今日こそ早く帰れると思ったのに」
「先週に比べればまだ早いほうじゃないか」
「……そうなんですけど、今日は花の金曜日ですよー」

俺の言葉に、隣を歩く同僚が拗ねたように答える。
その口から出た死語に俺は苦笑した。

「古い言葉知ってるね」
「……よく父が言ってるもので」

俺の指摘に照れたのか、同僚が気まずそうに目をそらした。
その父親はバブル世代なのだろう。
花の金曜日なんて俺らの年齢では縁のない言葉だ。

今日だって、同僚の言うとおり金曜日なのに残業だった。
定時に帰れるはずだったが思わぬトラブルでこんな時間。
ツイてなかった。

「残業ばかりで嫌になります」
「いいじゃないか、これから飲みに行くんだろ?」
「はい、荻原さんが付き合ってくれてよかった」

外堀通りを二人で歩きながら駅に向かう。
彼女に誘われて、これから飲みに行くつもりだった。
何でもおススメの店があるらしい。
美味しい料理に旨い酒は俺も大好きだ。菖蒲の次くらいに。

でも、どうして俺なのか。
残業していたのは俺だけじゃないのに、何故か俺だけ誘われた。
同僚だから気が楽だとかなのだろうか。

「男女で行くと安いらしいんですよ」
「あーそうなんだ。それで俺に白羽の矢が立ったわけね」

同僚の言葉に、合点がいく。
普段二人で飲みに行ったりしないのに、今回は何故かお誘いがかかった。
おかしいと思ったのだ。

俺が一人納得していると、彼女は少し困ったように微笑んだ。
その横顔に疑問を抱いた俺に、同僚はゆったりと、けれどはっきりと言った。

「……違いますよ。萩原さんだから誘ったんです」

どきりとする。
これはもしかしなくとも口説かれているのだろうか。
フリーの身の上、普段だったら喜んでその好意を受け入れるだろう。
でも、今の俺は菖蒲に恋するただの男だ。菖蒲しか見えない。

「……俺ってそんなに軽い男に思われてるの? 心外だなー」
「そっそんなこと全然」

いくら俺がモテるとはいえ社内恋愛は遠慮したい。
仕事中は仕事だけして、面倒ごとを増やしたくなかった。

核心に触れないように俺は曖昧に笑う。
そして、彼女の話を聞き流しながら歩いている途中、前から来た通行人に目が留まった。

それは何ともないただの親子連れ。
ただし、その両人に見覚えがあった。

格好は前会ったときよりも地味だが、遠くから見てもメイクが濃いことが分かる母親。
隣を歩く娘は、Pコートにミニスカート。黒いストッキングにごついブーツ。
初めて見る菖蒲の私服に胸が高鳴る。

高校の制服も似合うが、私服も可愛い。
今までセーラー服で連れ回していたが、今度からは私服にしてもらおう。
俺はひそかにそう決意する。

「菖蒲ちゃん」

俺は笑って、名前を呼んだ。
同僚が隣で不思議そうに見てるのはとりあえず今は無視。
菖蒲が目の前にいるのだ。他の誰が視界に入ろうか。

「……」

返事がないのを訝しがっている間に、菖蒲はもう手が届く距離にいた。
すれ違う瞬間、目が合った。
おもわず振り返るが、彼女はこちらなど見もしない。

「菖蒲……?」

もう一度呟くが、その背中は冷たく向けられたまま。
母親は後方の俺を気にしているようだが、菖蒲は毛ほども振り返ろうとはしなかった。

「萩原さん?」
「……いや、なんでもないよ。行こうか」

聞かれてもいないことを答えて、俺は隣を歩く同僚を急かす。
追求されたくなかった。







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2012.10.04