【14.劣等感】
「はぁっ……」
走りすぎたせいで、強く胸を叩く心臓が痛い。
胸元に手を当て、大きく息を吸う。
久しぶりの全力疾走は、運動不足の身体にかなりの負荷をかけた。
でも、あの人から逃げられたのだから、これでよかったのだ。
地面に縫い付けられたような足を動かす。
それは重く、ゆっくりとしか動かなかったけど、必死に前に進む。
今はとにかく、あの人から逃げたかった。
別れを切り出した私を、呆然と見つめていたあの人から。
逃げた私を、追いかけてすらくれなかったあの人から。
少しでも遠くに。
別れを言ったのは、引き止めてほしくて。
逃げたのは、追いかけてほしかったからだ。
追いかけて捕まえて、『逃がさない』って言ってほしかった。
好きだから放さないって、言葉が聞きたかった。
私は、誰かに好かれるような人間じゃない。
なのに、あの人は私のことを好きだって言う。
私は、私の価値が分からない。
どうして私を好いてくれるのか分からない。
だから、私に誰かが追いかけてくるような価値があるのか試した。
追いかけてくれるようなら、私には価値があるのだと、そう思いたかったから。
自分一人で賭けをした。
その結果は惨敗。
あの人は追いかけてなんてくれなかった。
私にはそんな価値はなかった。
叶わない夢を見たのだ。
「敬大さん……」
嫌いだから逃げたんじゃない。
これ以上好きにならないために逃げたのだ。
このどうしようもない劣等感からも。
「敬大さんっ……!」
呼んでも、呼んでも。もう二度と来ない。
淋しいときに慰めてくれた。嬉しいときに抱きしめてくれた。
あの腕はもう――
「南っ……」
近づく足音。声に反射的に振り向こうとした私の背に何かがぶつかる。
それは、ひどく柔らかくて、温かくて、視界が潤む。
ぼやけて見えなくて、それでも見たくて、強く瞬きをした。
頬を生ぬるい何かが伝う。
「南」
「っ……!」
もう限界だった。
お腹に回された腕を解き、身体を反転する。
見覚えのある白いシャツに、私は勢いよくしがみついた。
(08.09.01)