【29.痛み】
「ただいま……」
疲れきった声で、誰もいない部屋にそう呟く。
大して広くない玄関で、ハイヒールを脱いだ。
玄関を抜けてすぐのリビング。それに続くキッチン。
片付けていない洗い物が目に付いた。
ジャケットを脱いで、ハンガーにかける。
それをクローゼットに仕舞ってから流し台に向かう。
朝食のときに使った食器が、たらいの中で、洗われるのを今か今かと待っていた。
洗剤をつけ、泡立てて、食器を洗った。
朝は油を使ったものを作ってなかった。
それだけに、比較的簡単に洗い終わって、すすぎに入る。
水を出しっぱなしにして、食器をひとつずつ丁寧にすすぐ。
泡だらけのマグカップを掴んだと思ったら、それは手をすり抜けた。
ガシャンと派手な音をたてて、マグカップが床に散らばる。
それは、今さっき別れた恋人とお揃いのもの。
粉々に壊れたマグカップの残骸を、とっさに拾う。
瞬間、痛みを感じて手を引くと、人差し指から一筋血が垂れていた。
それを見て、へたりこむ。
もう、一時も立っていられなかった。
『さよなら』
そう呟く声は、震えてはいなかっただろうか。
顔はちゃんと笑えていたのだろうか。
気丈を取り繕って、嫌な女を振舞えてたならいい。
そう見えてなかったら、最悪だ。
『どうしてだよっ!?』
『……もう好きじゃないから』
『……!?』
嘘だ。
『そんな、そんなこと、一言も……』
『言うわけないでしょ?』
『お前……何度も、俺に好きって……』
『あはっ、そんな言葉信じてたんだ……』
嘘じゃなかった。
何度も繰り返した愛の言葉、全部本気だった。
『……お前がそんな奴だとは思わなかった』
『ふふ、そんな奴だったの』
『……お前なんて、お前なんてっ大嫌いだ!』
ごめんなさい。ごめんなさい。
心の中で何度も謝罪する。
別れを告げたときの貴方の顔は、すごく傷ついた顔だった。
絶望を絵に描いたように、今にも泣きそうだった。
「嫌い、かぁ……」
あれだけ傷つけて、あんなことを言ったのだから当たり前だ。
これで嫌わなかったらどうかしてる。
でも―――
「最後まで信じてくれると思ってたんだよ……」
行くなって言って、引き止めてくれて。
私の好きじゃないって言葉を強がりだって見破ってくれると思ってた。
大嫌いなんて言われるとは、思ってもみなかった。
「痛い、ね……」
好意を裏返されることは、なんて痛いんだろう。
柔らかい何かを抉るような、よじれる痛みは、きっと貴方も感じたもの。
私に言われた言葉で同じように傷ついたのだろう。
それを思えば、この痛みにも耐えられる。
唇を噛んで声を抑えて、泣き叫ぶのもこらえてみせる。
『嫌い』
エコーをかけたように繰り返される声。
自分が蒔いた種だ。仕方ないこと。
そう思わないと苦しくて、耐え難かった。
『大嫌いだ』
でも、その言葉は痛いのだ。
どれだけ耐えても、どれだけ抑えても、貴方の「嫌い」は容赦なく突き刺さる。
今すぐに、この痛みも全て、忘れてしまいたいと思うほどに。
耐えて、抑えて、こらえて、耐えて。
そうしていつかこの痛みも忘れられるのだろうか。
流れる月日が解決してくれるのか。
今は分からない。
ただ今は、まだこの痛みを覚えていたかった。
貴方が唯一残した、この痛みだけは。
忘れたくないと、そう思った。
(08.09.20)